右島一朗

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右島 一朗(みぎしま いちろう、1948年9月25日[1] - 2004年8月8日)は、日本の新左翼活動家。筆名・高島義一日本革命的共産主義者同盟(JRCL)中央委員、書記局員、週刊「かけはし」編集長[2]

経歴[編集]

千葉県船橋市生まれ。1968年に東京薬科大学に入学、ブント(共産主義者同盟)に加盟。1969年の第二次ブント分裂では赤軍派の形成に関わったが、その直後に赤軍派の極左路線を批判してブント関西派系列のメンバーとなった。1971年以後、ブントと決別し、1972年1月に第四インターの学生組織・国際主義共産学生同盟(学生インター)に参加、学生インター東薬大支部を組織した。1973年に日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)に加盟。1974年に学生運動家から党派の専従活動家となり、以後、機関紙編集部の一員として機関紙活動に携わった[2]。1991年に第四インターは「日本革命的共産主義者同盟(JRCL)」に改称、1996年にその機関紙『世界革命』は『かけはし』に改題した。

2004年8月、単独行の登山中、南アルプス赤石岳聖岳の間の赤石沢(静岡県)で滑落して死亡した。享年55歳。8月11日に登山者が遺体を発見した。亡くなったのは8月8日でほぼ即死だったと推定されている[2]

人物[編集]

  • 週刊の機関紙『世界革命』『かけはし』に毎号の様に高島義一名義の論文が掲載された[3]。執筆分野は政治情勢、経済情勢、社会運動、時事問題、文化批評など幅広い分野に及ぶ[2]。右島は機関紙の編集長であったが、平井俊一(国富建治)と共に論説主幹的役割も担い、また取材記者・カメラマンの役割も担っていた[3]
  • 原子力発電に強く反対する立場を取った[4]。2011年の福島第一原発事故の後、「週刊かけはし」公式サイトに右島の反原発論文が掲載された[5]
  • 趣味は、絵画、モーツァルト鑑賞、夏冬の登山。機関紙活動でほとんど休みがないなかでの息抜きになっていたと考えられる[3]
  • 筆名の高島義一は、元中核派活動家で右島と同じく第四インターに中途で入った村岡到が名付けたという[6]
  • 社会運動家の樋口篤三は、JRCLだけでなく日本の革命と社会運動にとっても大きな損失だと「革命的ジャーナリスト」右島の死を惜しんだ[3]

著書[編集]

脚注[編集]

  1. 右島一朗著作集―社会主義再生への途上で 紀伊國屋書店
  2. a b c d 日本革命的共産主義者同盟(JRCL)中央委員会書記局 右島一朗(高島義一)同志を追悼する かけはし2004.08.23号
  3. a b c d 樋口篤三『革命家・労働運動家列伝』同時代社、2011年、211-212頁
  4. S.T 右島一朗君を追悼する インターナショナル第148号:2004年9月号掲載
  5. 右島一朗反原発論文 週刊かけはし
  6. 村岡到:高島義一さんを追悼する JCA-NET

外部リンク[編集]