南原繁

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南原繁(なんばらしげる、1889年9月5日 - 1974年5月19日)は、政治哲学者、元東京大学総長、法学部長、日本政治学会の初代理事長である。

人物[編集]

1889年、大日本帝国憲法が発布された年に香川県で生まれる。1914年(大正3年)東京帝国大学法科大学を卒業後、内務省に入省する。卒業時は学部の首席となり銀時計を下賜される。1921年、東京帝国大学法学部助教授に就任する[1]。1925年、東京帝国大学法学部教授となる。1945年3月、東京帝国大学法学部長となる。1945年に内大臣の木戸幸一近衛文麿若槻礼次郎東郷茂徳などの重臣を通じて、終戦工作に関わる[2][3]。1945年12月、戦後における最初の東京大学総長となる。
1949年12月9日、アメリカワシントンで、被占領国に関する全米教育会議で「日本における教育改革の理想」の講演を行い、戦争に負けた日本にこんな立派な教育者がいるのかと、驚きの声があがる。講演では将来の講和条約の締結は、全面講和以外にはありえないと全面講和論を主張した。当時の吉田茂首相は烈火のように怒り、「曲学阿世の輩であり、全面講和論は学者の空論である」と批判した。胃の悪性腫瘍により1974年(昭和49年)に死去した。

GHQ接収を免れる[編集]

1945年8月から9月にかけてGHQが東京大学本郷キャンパスを接収して司令部として使う情報が流れたとき、南原法学部長と内田祥三総長は戦時中も軍の接収を断りつつづけた実績を強調するとともに、接収されれば日本の教育文化が停止すると力説して接収を免れた(内田祥三(1955))。代わりにGHQは日比谷の第一生命ビルを接収した。

著書[編集]

研究書[編集]

  • 加藤節『南原繁』(新書)岩波書店、1997 
  • 丸山真男, 福田歓一 『南原繁回顧録 : 聞き書』東京大学出版会 1989

関連項目[編集]

  • 笠置シヅ子 -笠置シヅ子の実父である三谷陳平は、相生小学校で南原の一年下の同窓生であり、夏休みには海水浴などで一緒に遊んだことことから、笠置の後援会長を引き受けた(山口周三(2012))。

参考文献[編集]

  • 加藤陽子,木花章智,村松晋,宮崎文彦,南原繁研究会(2016)『南原繁と戦争―歴史からの教訓』合資会社横浜大気堂
  • 内田祥三(1955)「東京大学が接収を免れた経緯について」「学士会会報」660号、661号
  • 山口周三(2012)『南原繁の生涯 : 信仰・思想・業績』教文館

[編集]

  1. 1919年(大正8年)2月に東京帝国大学法科大学は東京帝国大学法学部となっている。
  2. NHK『ETV特集 昭和天皇 秘められた終戦工作』2024年8月17日放送
  3. 天皇の詔勅によって戦争を終わらせる方式を編み出した手腕は重要であったと評される(加藤陽子他(2016))。日本政府はソ連を仲介とする和平に望みを掛けたため、終戦まで2ヵ月を空費した。