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1943年頃

西田 幾多郎(にしだ きたろう、明治3年4月19日1870年5月19日) - 昭和20年(1945年6月7日)は、近代日本哲学者[1]石川県生まれ。いわゆる西田哲学[1]を築き、京都学派の中心人物となる。京都大学教授名誉教授

経歴[編集]

1870年(明治3年)5月19日に石川県かほく市森に、父、得登(とくのり)と母、寅三(とき)の長男として生まれる[2][1]。1875年(明治8年)4月に開校したばかりの森小学校に入学する。従妹の得田寿美が生まれる[3]。1879年森小学校が閉鎖され西田家の屋敷内に新化小学校として移転改称される。初代校長には父親の得登が就任する。1882年(明治15年)新化小学校高等科を卒業する[4]

1883(明治16年)7月、石川師範学校に入学。1884年2月、石川師範学校予備科卒業。10月師範学校に進むが病気で中退する。1886年(明治19年)9月、石川県専門学校初等中学科に補欠入学する。1887年7月に初等中学科を卒業し9月に第四高等中学校予科に入学する。1888年6月に鈴木大拙が家計のため忠太する。西田は7月第四高等中学校予科を卒業し9月に第四高等中学本科に入学する[5]

1890年(明治23年)3月、第四高等中学校退学。9月山本良吉、藤岡作太郎らと「不成文会」を結成する[6]。1891年(明治24年)帝国大学文科大学選科入学。1892年9月に鈴木大拙が帝国大学文科大学選科に入学する。1894年(明治27年)7月帝国大学文科哲学科選科を卒業する。1895年4月(明治28年)石川県尋常中学校七尾分校の主任になる。5月に従妹の得田寿美と結婚する[6]

1896年(明治29年)第四高等学校嘱託講師となる。1897年(明治30年)鈴木大拙がアメリカに渡る。寿美が長女を連れて家出。第四高等学校嘱託講師を解かれ10月山口高等学校教務嘱託となり山口に転居する。1898年(明治31年)6月に長男が生まれる。10月に父親の得登が逝去する。1899年(明治32年)2月寿美と復縁する。3月には山口高等学校教授となる。7月第四高等学校教授となる[7]

1910年(明治43年)8月京都帝国大学文科大学への辞令が出る[1]。1911年(明治44年)1月『善の研究』を出版する。10月真宗大学(大谷大学の前身)の講師となる[7]

1913年(大正2年)4月、田辺元とはじめてであう。8月京都帝国大学文科大学、宗教学講座を担当する。12月文学博士の学位を授与。翌年、哲学哲学史第一講座を担当する[8]

1916年(大正5年)秋、京都帝国大学学生課主催の特別講演「現代における理想主義の哲学」を行う。1917年(大正6年)10月『自覚における直感と反省』を出版する[9]。1920年(大正9年)1月『意識の問題』を出版する。8月に田辺元が京都帝国大学文学部助教授になる。

1927年(昭和2年)帝国学士院会員となる。1928年(昭和3年)8月京都帝国大学免官の辞令が出る[10] [1]。1929年(昭和4年)2月京都帝国大学名誉教授となる。1930年(昭和5年)1月『一般車の自覚的体系』を出版する[11]。1932年(昭和7年)12月『六の自覚的限定』を出版する[12]

業績[編集]

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脚注[編集]

  1. a b c d e 廣松 1998, p. 1207.
  2. 大橋 2013, p. 333.
  3. 大橋 2013, p. 334.
  4. 大橋 2013, p. 335.
  5. 大橋 2013, p. 336.
  6. a b 大橋 2013, p. 337.
  7. a b 大橋 2013, p. 338.
  8. 大橋 2013, p. 343.
  9. 大橋 2013, p. 344.
  10. 大橋 2013, p. 345.
  11. 大橋 2013, p. 348.
  12. 大橋 2013, p. 349.

出典・引用等[編集]

  • 大橋良介 『西田幾多郎 本当の日本はこれからと存じます』 ミネルバ書房〈ミネルバ日本評伝選〉、2013年3月10日 発行、1st。ISBN 978-4-623-06614-8
  • 『岩波 哲学・思想辞典』 廣松渉 子安宣邦 三島憲一 宮本久雄 佐々木力 野家啓一 末木文美彦、岩波書店、1998年3月18日 発行、1st。ISBN 4-00-080089-2