判乃氏
判乃氏(はんのし)は、武蔵国高麗郡飯能邑(現・埼玉県飯能市)に居住していた武蔵七党の丹党に属する氏族[1][2]。正治元年(1199年)に没した判乃基兼の一代のみである[3]。基兼が現在の飯能市山手町に居住し、判乃氏と称した[2][3]。
概要[編集]
丹党の祖である丹治武信の子孫、秩父基房の子、五郎経家は高麗郡に移り住んで高麗五郎と称した。経家の子の太郎実家、二郎家季、五郎実景は加治、三郎基武は桐野、四郎基兼は判乃、六郎盛直は赤沢、七郎盛泰は名栗と、それぞれ移り住んだ地名を氏とした[4]。『七党系図』『井戸葉栗系図』には「高麗五郎経家―判乃」とある[1]。『諸家姓氏元祖記』『姓氏家系大辞典』には三郎基兼が判乃氏と称したとある[5][1]。
正治元年(1199年)8月、源頼家が安達景盛を討とうと兵を上げたとき、判乃氏は加治氏、精明村の丹党青木氏と共に景盛に味方した。頼家と武蔵野で戦って敗れ、基兼は討死にして判乃氏は一代で滅亡した[3]。『飯能郷土史』は「千人塚にその名残をとどめるのみである」と述べる一方[3]、「判乃村は基兼の住むことに依って発展したと推定され」るとも述べている[6]。
判乃氏が飯能という地名を姓氏としていたとされるが[5][7]、判乃氏が飯能という地名の由来になったとする説もある[8][9]。飯能という地名の由来は他にも諸説あり、確定していない[10]。
判乃氏館[編集]
判乃基兼は現在の飯能市山手町、飯能市立飯能第一小学校の前にある天理教中武分教会・出世稲荷神社付近に館を構えていた[11]。館の築造年代は鎌倉時代初期。大正の頃まで空堀が残っていたという[12]。第一小学校がある小字後ロ堀(後堀、御城堀、御城壕)、出世稲荷がある内出(討出)、その南にある町並という地名は判乃氏に由来するとされる[13][14]。
『新編武蔵風土記稿』の飯能村の項には「屋敷跡 村の東南大泉寺の邊をいへり、正親町大納言居住せし所なりと、土手から堀のあと今に存せり」とある[15]。地元の伝承では、正親町大納言実澄が左遷されてこの地に居住していた。また頼家と景盛が戦った正治元年(1199年)の頃、正親町の息女勝姫が入間川の淵に入水したという。『新編武蔵風土記稿』は勝姫の伝承について、系譜によれば正親町大納言は永正4年(1507年)に出家しているので誤りであるしている[16]。
安部立郎の『入間郡誌』(1912年)には「判乃氏館跡及大泉寺跡 小学校附近より田中銃砲店附近までは古の館跡にして、土居の跡も近年まで存したりしと云ふ。」とある[17]。
大泉寺[編集]
現在の天理教中武分教会の場所にあった判乃氏の菩提寺である[3]。鎌倉時代初期に判乃基兼が創設したとされる[18]。諏訪八幡神社の別当寺であった。後に観音寺が別当職を引き継いだが、現在も諏訪八幡神社の獅子舞は大泉寺跡地の天理教教会から出発する。観音寺の隠居寺であったが、明治初年に廃寺となり[19]、跡地には1917年(大正6年)までに天理教の教会が建てられた[20]。
『新編武蔵風土記稿』には「大泉寺 神光山と號す、前寺と同宗、同末(新義真言宗、郡中新堀村聖天院末)なり、本尊は不動を安ず」とある[21]。また同書によれば諏訪明神社の棟札の写しに同社は天正12年(1584年)に本願智観寺住僧法印慶賢、大檀那加治勘解由左衛門吉範、当所諸檀那代官小室三右衛門成就坊が再興したとある。成就坊は別当の大泉寺のことで、享保9年(1724年)に火災に遭い、この棟札も焼失したという[15]。
出世稲荷神社[編集]
かつては「内出の稲荷」と呼ばれていた。祭神は宇気母智命。創建年や由来は不明だが、江戸時代にも信仰されていた。判乃基兼が勧請したとも)[22]、農民になった判乃氏の子孫が先祖の供養のために大泉寺を建てると共に、農業神である稲荷神を祀ったものとも考えられている[23]。
詳細は「出世稲荷神社 (飯能市)」を参照
千人塚[編集]
飯能市双柳にある塚。頂上に浅間神社が祀られている。飯能市指定文化財(史跡)。『飯能郷土史』によれば、正治元年(1199年)8月、源頼家が安達景盛を討とうと兵を上げたとき、丹党の判乃氏、加治氏、青木氏は景盛に味方して武蔵野で戦い、多くの戦死者を出した。千人塚はこのときに討死した丹党の一族を葬ったところであるとされる。同書はこのときに滅亡した判乃氏について「千人塚にその名残をとどめるのみである」と述べている[3]。
詳細は「双柳の浅間塚」を参照
出典[編集]
- ↑ a b c 太田亮編 1963, pp. 4853.
- ↑ a b 埼玉新聞社 1975, pp. 239「判乃氏」.
- ↑ a b c d e f 飯能第一国民学校編 1981, pp. 245-246.
- ↑ 飯能第一国民学校編 1981, pp. 238-240,247.
- ↑ a b 渡辺世祐、八代国治 1971, pp. 96.
- ↑ 飯能第一国民学校編 1981, pp. 78.
- ↑ 飯能市史編集委員会編 1986, pp. 20.
- ↑ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編 1980, pp. 707.
- ↑ 吉田東伍 1992, pp. 404.
- ↑ 飯能市史編集委員会編 1986, pp. 47-49.
- ↑ 埼玉新聞社 1975, pp. 244「判乃氏館跡」.
- ↑ 埼玉県教育委員会編 1987, pp. 44「判乃氏館」.
- ↑ 飯能第一国民学校編 1981, pp. 78,90,245.
- ↑ 飯能市史編集委員会編 1986, pp. 27.
- ↑ a b 蘆田伊人編 1977, pp. 107.
- ↑ 蘆田伊人編 1977, pp. 105-106.
- ↑ 埼玉県入間郡誌 2003, p. 480
- ↑ 飯能第一国民学校編 1981, pp. 102.
- ↑ 飯能第一国民学校編 1981, pp. 532.
- ↑ 飯能市史編集委員会編 1986, pp. 148.
- ↑ 蘆田伊人編 1977, pp. 112.
- ↑ 新井清寿 1984, 宮司による「発行のあいさつ」.
- ↑ 新井清寿 1984, p. 1-3
参考文献[編集]
- 蘆田伊人編 『大日本地誌大系 ⑮ 新編武蔵国風土記稿 第9巻』 雄山閣、1977年。
- 新井清寿・文、藤野淳・写真 『出世稲荷神社史』 出世稲荷世話人会、1984年。
- 岩澤愿彦監修 『系図纂要 新版 第14冊上 号外(3)』 名著出版、1998年。
- 太田亮編 『姓氏家系大辞典 第3巻』 角川書店、1963年。
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編 『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』 角川書店、1980年。
- 川又辰次編 『軍記武蔵七党 下巻』 川又タケヨ、1985年。
- 埼玉県編集 『新編埼玉県史 別編4 年表・系図』 埼玉県、1991年。
- 埼玉県教育委員会編 『埼玉の館城跡』 国書刊行会、1987年。
- 埼玉新聞社 『埼玉大百科事典 第4巻』 埼玉新聞社、1975年。
- 竹村雅夫「飯能館」、鳥羽正雄、城戸久、小室栄一、桜井成広、江崎俊平、中山光久編 『日本城郭全集 第4 (東京・神奈川・埼玉編)』 新人物往来社、1967年。
- 飯能市史編集委員会編 『飯能市史 資料編XI (地名・姓氏)』 飯能市、1986年。
- 飯能市史編集委員会編 『飯能市史 通史編』 飯能市、1988年。
- 飯能第一国民学校編 『飯能郷土史』 国書刊行会、1981年。原本は1944年に飯能翼賛荘年団から発行。
- 平井聖、村井益男、村田修三編 『日本城郭大系 第5巻』 新人物往来社、1979年。
- 村田修三、服部英雄監修 『都道府県別日本の中世城館調査報告書集成 6』 東洋書林、2000年。
- 吉田東伍 『増補 大日本地名辞書 第六巻』 冨山房、1992年、新装版。
- 渡辺世祐、八代国治 『武蔵武士』 有峰書店新社、1971年。
- 『埼玉県入間郡誌』 千秋社、2003年。