双柳の浅間塚
双柳の浅間塚(なみやなぎのせんげんづか)は、埼玉県飯能市大字双柳にある塚。
頂上に浅間神社が祀られているため、浅間塚と呼ばれる[1]。千人塚[2]、コメ塚ともいう[3]。市指定文化財(史跡)。所有者(管理者)は浅間自治会[1]。
概要[編集]
直径東西31m、南北34m、高さ5mの円墳状の塚。頂上は東西9m、南北8mの平坦地で浅間神社が祀られている。全体に草木が繁っている[1]。「以前はその周囲に小さな塚が幾つかあったと伝えられている」が、事実であるかは不明である[2]。先史時代の古墳、中世の塚、近世の富士塚、自然にできた土の山という説があるが、詳細はわかっていない[2]。1960年(昭和35年)6月13日に市指定文化財(史跡)に指定された[1]。
文政13年(1830年)に完成した『新編武蔵風土記稿』の双柳村の項には「こめ塚 村の艮新田の邊にあり、高さ二丈餘、周回二十間許、塚上に浅間の小祠を安ず、數株の杉たてり、この塚は正治元年、青木氏討死の者を埋めし所なりと云、然らば籠塚と書べきならんに、里民文字を傳へず、秀常寺の持なり」とある[4]。『飯能市史』が刊行された1976年時点では、「こめ塚」と呼ぶ人はいなくなっていた[2]。
『飯能郷土史』(1944年)によれば、正治元年(1199年)8月、源頼家が安達景盛を討とうと兵を上げたとき、丹党の判乃氏、加治氏、青木氏は景盛に味方して武蔵野で戦い、多くの戦死者を出した。千人塚はこのときに討死した丹党の一族を葬ったところであるとされる[3]。
『埼玉県市町村誌』(1974年)、『角川日本地名大辞典』(1980年)は、古墳時代後期の円墳だとしている[5][6]。
頂上の浅間神社は『新編武蔵風土記稿』にも記載があり、近世に富士講の結成や富士塚の造営といった富士信仰が盛んになったときに祀られたと考えられる[2]。『飯能郷土史』刊行時点(1944年)では、浅間社は無くなっていた[3]。
アクセス[編集]
所在地:埼玉県飯能市大字双柳
脚注[編集]
- ↑ a b c d 飯能市教育委員会『飯能の指定文化財』飯能市教育委員会、2009年、pp.110,148
- ↑ a b c d e 飯能市史編集委員会編『飯能市史 資料編Ⅰ (文化財)』飯能市、1976年、pp.181-182
- ↑ a b c 飯能第一国民学校編『飯能郷土史』国書刊行会、1981年、pp.245-246
- ↑ 蘆田伊人編『大日本地誌大系 ⑮ 新編武蔵国風土記稿 第9巻』雄山閣、1977年、pp.132
- ↑ 埼玉県地域総合調査会編『埼玉県市町村誌 第5巻』埼玉県教育委員会、1974年、pp.55
- ↑ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典 11 埼玉』平凡社、1980年、pp.639
外部リンク[編集]
- 史跡・名勝・旧跡・重要遺跡 - 飯能市公式サイト