新井清寿
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新井 清寿(新井 清壽、あらい きよひさ[1]、あらい せいじゅ[2]、1910年 - 1992年[1])は、郷土史家[3]、民話研究家[4]。
埼玉師範学校卒[2]。埼玉県入間郡日高町立高麗小学校長[5]、埼玉県教育委員会入間教育事務所指導係長[6]、飯能市立飯能第一小学校長(1962年着任)[7]、入間地区社会科教育研究会初代会長(1962年結成)[8]、白鳥幼稚園長[9]、埼玉県退職校長会副会長(昭和60年度)などを務めた[10]。旧高麗村の近世の農村構造の研究[11]、古文書の調査と研究などに取り組み[9]、飯能の郷土史研究に多大な功績を残した[12]。飯能郷土史研究会副会長[2]、会長(1983年就任)[9]、飯能市史編さん委員、編集委員[13]。1983年に飯能郷土史研究会が制作・発行した「飯能郷土史かるた」の解説を担当[14]。俳句の会「飯能山麓会」の同人で俳号は新井赤城[15]。
1977年に飯能市内の天覧山・多峯主山一帯に開発計画が持ち上がった際、新井が代表となって「天覧山付近の自然を守る会」が結成された。1987年に開発予定地の4分の1を緑地として保全することができたが、残りの土地は市街化区域編入を余儀なくされた。新井没後の1995年に新たな開発計画が持ち上がり、「天覧山・多峯主山の自然を守る会」が結成された。2005年に天覧山・多峯主山一帯に計画されていた宅地開発は中止となった[16]。
著書[編集]
- 『高麗郷土史』(加藤喜代次郎共同編纂、高麗郷土史研究会、1955年/日高町教育委員会、1974年)
- 『高麗郡設置に関する一考察』(光版社、1971年)
- 『飯能の伝説』(飯能郷土史研究会、1973年/飯能郷土史研究会[はんのう文庫]、1976年)
- 『慶長二年武州高麗郡下吾野郷御地詰帳 検地帳からみた近世初頭の飯能』(飯能郷土史研究会、1974年)
- 『干支関連年表』(1975年)
- 『一橋御領地郷村騒動記 日高町 堀口久太郎文書 写』(編、飯能市文化財委員会、1975年)
- 『出世稲荷神社史』(文、藤野淳・写真、出世稲荷世話人会、1984年)
- 『諏訪乃森の神々』(解説、権藤宏・写真、諏訪八幡神社、1986年)
- 『飯能戦争』(飯能郷土史研究会[はんのう文庫]、1988年)
- 『美しく』(新井赤城著、小谷野寛一監修、渋谷百司、1996年)
出典[編集]
- ↑ a b 飯能の伝説 NDLサーチ
- ↑ a b c 栗原仲道、小山誠三、神山健吉編『埼玉県の民話と伝説 入間編』有峰書店、1977年
- ↑ 天覧山付近の自然を守る会編著『緑のまちと市民たち――市民が守った飯能の自然』三一書房、1980年
- ↑ 猪股能三「奥武蔵の民話」『石垣』No.28、日本商工会議所、1982年9月
- ↑ 『埼玉年鑑 昭和29年版』埼玉新聞社、1953年、254頁
- ↑ 『埼玉年鑑 昭和37年版』埼玉新聞社、1961年、239頁
- ↑ 小松崎甲子雄『飯能の明治百年』文化新聞社、1968年、93頁
- ↑ 守谷弘『雨滴人生雑録』守谷弘、1985年、170-171頁
- ↑ a b c 井上峰次「新井清壽先生を偲んで」『郷土はんのう』第13号(PDF)飯能市文化財研究会、1993年6月12日
- ↑ 『二十周年記念誌』埼玉県退職校長会事務局、1986年、64頁
- ↑ 大護八郎・文、小林徳太郎・写真『庚申塔――路傍の石仏 第3集』新世紀社、1958年、7頁
- ↑ 平井亜未、横田弥三郎、黒澤清三郎、加藤寛之「聞き書き 天狗の声(PDF)」『地域と大学――城西大学・城西短期大学地域連携センター紀要』第3号、2023年
- ↑ 『飯能市史 資料編Ⅰ(文化財)』飯能市、1976年
- ↑ 飯能郷土史かるた 郷土かるたコレクション
- ↑ 飯能山麓会『第二合同句集 山麓』小谷野寛一、1978年
- ↑ 浅野正敏「代表より」『やませみ』42号 、NPO法人天覧山・多峯主山の自然を守る会、2005年4月1日