倉慈
ナビゲーションに移動
検索に移動
倉 慈(そう じ、生没年不詳)は、中国の後漢末期から三国時代にかけての魏の武将・政治家。字は孝仁(こうじん)[1]。
生涯[編集]
揚州九江郡寿春県の出身[1]。最初は郡の役人をしていたが、曹操が寿春で屯田を始めた際に綏集都尉に任命された[1]。文帝の時代に長安の令に任命される[1]。明帝の時代に敦煌郡太守に任命される[1]。当時の敦煌は動乱のために20年も太守が不在で豪族が実質支配して権勢を振るっていたが、倉慈は豪族を抑えて治世に務め、異民族との交流も深めてその威徳を称えられた[1]。太守に任命されてから数年後に死去したとされ、その死去を知った敦煌の人民は悲しんで遺影を絵に描いて祀った[1]。