佐藤忠良
佐藤忠良(さとうちゅうりょう、1912年7月4日 - 2011年3月30日)は日本の彫刻家である。優れた描写力に基づく動きに満ちた躍動感のある彫刻で知られる。日本の近代彫刻史に残る彫刻家である。
概要[編集]
1912年宮城県黒川郡生まれ。1925年以降、父の死去、翌年母の実家の移住先である北海道夕張町に移り、少年時代を北海道で過ごす。1932年、上京し川端画学校にて学ぶ。絵画を学ぶために上京したが、オーギュスト・ロダン、マイヨール、デスピオなどの作品に感銘を覚え彫刻家を志すようになった。1934年、東京美術学校彫刻科に入学する。
1939年、東京美術学校(現東京芸術大学)を卒業。東京美術学校では生涯の友でライバルとなる舟越保武に出会った。本郷新、柳原義達、舟越保武ら7名で新制作派協会彫刻部の創立に参加する。1940年、吉田照と結婚する。1944年、兵役に招集され、満州に渡る1945年から1948年にかけて、3年間のシベリア抑留から帰還する。
1954年、第1回現代日本美術展佳作賞を受賞。1960年、第3回高村光太郎賞を受賞する。日本共産党員であったが、1964年10月に渡部義通、朝倉摂、出隆、国分一太郎、佐多稲子、野間宏、本郷新、丸木位里、丸木俊、宮島義勇、山田勝次郎と連署で党指導部批判の声明を発表し、11月に自己批判した本郷、宮島を除いて除名された[1]。1966年、東京造形大学創立時に教授に就任する。1974年、第15回毎日芸術賞、芸術選奨文部大臣賞を受賞する。1975年、第6回中原悌二郎賞を受賞。 1981年、フランス国立ロダン美術館にて日本人として初の個展 『佐藤忠良展』を開催し、フランスアカデミー・デ・ボザールの客員会員に推挙され、国際的にも高い評価を得た。
1990年、宮城県美術館内に佐藤忠良記念館が設立される。 1998年、佐川美術館『ブロンズの詩 佐藤忠良館』が開館。 2011年3月30日、老衰のため東京都杉並区永福の自宅で死去。