二本松騒動
二本松騒動(にほんまつそうどう)とは、江戸時代後期に陸奥国二本松藩で発生した御家騒動である。この騒動は幕府にほとんど気付かれなかったのか黙認されたのか、藩主が重臣に暗殺されて新藩主が擁立されることで終焉している。
概要[編集]
前段階[編集]
二本松藩の藩主は丹羽氏。この丹羽氏は、織田信長の重臣として仕えて活躍した丹羽長秀の子孫の家系である。長秀の孫・丹羽光重の時代である寛永20年(1643年)に二本松藩に入封した。石高は10万石である。
光重の後、丹羽長次、丹羽長之、丹羽秀延と続き、5代目の丹羽高寛の時代には藩財政は他藩と同じように窮乏していた。高寛は藩財政再建のため、岩井田昨非を登用して享保の藩政改革に着手した。岩井田は軍制改革・法制改革・学制改革・農制改革・税制改革と次々と改革に着手したが、経済的な改革では藩士の俸禄の一部を借り上げ、さらに領民に新税を課すなど厳しい政策が採用された。このため、岩井田に対する反発が藩内で一気に高まり、百姓は2万もの群衆を集めて一揆を起こした。この一揆に対して、岩井田は首謀者を処刑して鎮圧し、その上で新税を課すなどしたが、余りに強硬な藩政改革は内外問わずに多くの敵を作り、結局岩井田は失脚を余儀なくされた。
岩井田が失脚した時点で高寛は既に死去しており、子の丹羽高庸の時代になっていたが、この高庸の時代を経た息子の丹羽長貴の時代に変事が起こることになる。
丹羽長貴の藩政改革[編集]
長貴が藩主を継承して程なくの明和4年(1767年)4月9日、二本松藩の侍屋敷のほぼ4分の1、さらに城下町の大半を焼失するという大火災が発生した。記録によると「家中侍屋敷二百一軒、籾蔵二箇所、夫食蔵三箇所、飯米入置候蔵二十三箇所、家中土蔵十箇所、町屋五百四十軒、神社三箇所、寺八箇所」とあるから、10万石程度の二本松藩にとっては壊滅的な打撃になったと言ってよい。若き新藩主の長貴は、この大火を受けて藩の再建に着手することを余儀なくされた。
長貴は、城下の豪商や領内の豪農から多額の金を献上の形で差し出させ、その見返りに苗字帯刀を許すことを許可した。具体的には、30両以上が苗字帯刀御免で、200両以上が郷士に取り立てられるというものだった。この見返り献金は長貴の予想以上に応募者が集まり、藩再建のための資金が集められた。
ところが明和8年(1771年)、今度は奥羽を大飢饉が襲い、二本松藩もそれによって5万3000石が減収になるという打撃を被った。さらに天明4年(1784年)には、天明の大飢饉で二本松藩は壊滅的な打撃を受けた。10万石のうち、9万9000石の減収になったというから事実上の破産だった。藩内には餓死者があふれる惨憺たる状況になった。しかし、相次ぐ災害により二本松藩の藩庫は既に尽きており、困窮者の救済を豪農や豪商に頼る政策をまた繰り返さざるを得なかった。ただ、記録では不思議な点がある。二本松城下の竹田町の記録では「紺野文右衛門米三十俵、銭百貫文、太田源十郎米三十俵、国分吉十郎米十俵、今泉直右衛門米二十俵・銭七十貫文」とあり、藩の財政が火の車だったのに対し、豪商の経済力はかなりのものがあったようである。
若き長貴にとって、相次ぐ災害とそれによる出費による藩財政の著しい悪化は、大きな衝撃を与えると同時に、最早従来の藩政改革では駄目だということを気付かせた。長貴は岩井田が失脚する前に断行しようとしていた人口対策と産業を振興させる政策を採用して二本松藩を立て直そうと考えた。そして、その実現のためには藩主の権力を大きく強化することによる藩主親裁が必要であるとし、重臣の成田頼迩を自らの片腕に用いて強き藩政改革を行おうとした。
藩主の最期[編集]
丹羽家は、信長の時代から続く名門である。当然、そんな歴史ある家であるから、一族や家臣には多くの門閥が存在し、既得権も多く存在していた。これらの一族や家臣らは、長貴と成田による藩政改革に大きく反発する。特に彼らが反発したのは藩主の権力を強化するというものであり、これは彼らの既得権を犯していたのがまずかった。
若き長貴にとって、この一族や家臣の反発は挫折感を味わせた。結局、長貴の藩政改革は中途で挫折した。そして、長貴はその精神的なショックからなのか、その後は常軌を逸した行動をとることが多くなった。余りの行動に、これが江戸幕府に知られたらただでは済まないと考えた重臣・依包源兵衛は「丹羽家を守るため」という大義名分のもとに、寛政8年(1796年)に長貴を暗殺してしまった。
丹羽家は新たに長貴の遺児である丹羽長祥を擁立した。また、この暗殺はうまく誤魔化せたのか、幕府が特段の反応を見せることなく終わっている。