丸谷才一

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丸谷才一(まるや さいいち、1925年8月27日-2012年10月13日)は、小説家、批評家、随筆家、英文学者。

人物[編集]

山形県鶴岡市生まれ。次男なのに「才一」という名であることから、『横しぐれ』に描かれた出生の秘密があるのではないかと言われる。旧制新潟高等学校から、東京大学文学部英文科卒、同大学大学院修士課程修了。ジェイムズ・ジョイスを専門とする。高校教師ののち、國學院大學助教授まで務め、小説家となって辞職。演劇評論家の根村絢子と結婚し、本名は根村才一となっていた。

篠田一士らと同人誌『批評』を創刊、最初の小説『エホバの顔を避けて』はここに連載された。日本の私小説を批判し、西洋的な市民小説を規範とした。一方三島由紀夫小林秀雄を認めなかった。三島は芥川賞選考委員だったため、それが原因で芥川賞の受賞が遅れたとも言われる。

1967年、大学職員で徴兵忌避の過去がある男を描いた長編『笹まくら』を刊行し、河出文化賞を受賞。1968年「年の残り」で芥川賞を受賞。以後長編に専念し、1972年『たった一人の反乱』で谷崎潤一郎賞を受賞。日本の花柳界を西洋の社交界に準ずるものととらえ、ここでは芸者を妾にし、さらに正妻に「なおす」男を描いた。以後、十年に一作の長編を書き、ほかは洒脱なエッセイを書いたり英文学の翻訳をするという仕事の仕方をした。1982年には『裏声で歌へ君が代』を刊行したが、これを新潟高校の友人だった朝日新聞記者・百目鬼恭三郎が朝日新聞の一面の記事で紹介したため、仲間褒めだと江藤淳が批判した。さらに江藤は、丸谷と親しい山崎正和粕谷一希の三人の党派を批判した。

旧かな遣いを正しいとしたが、新聞などでは新かなも許容した。リアリズムの超克を日本文学の課題と考え、1982年に市川森一が脚本を書いたドラマ「淋しいのはお前だけじゃない」が放送された時、朝日新聞紙上でまっさきにリアリズム離れの見本として賞賛したし、辻原登が「村の名前」で芥川賞をとった時、選考委員の丸谷は、リアリズムの卒業をうまくやったと褒めた。

ジョイスの『ユリシーズ』を、高松雄一永川玲二とともに新訳した。評論家としても活躍し、夏目漱石が徴兵忌避者で、「漱石」は北海道への「送籍」を意味するという評論を書き、和歌史にも詳しく、1973年『後鳥羽院』で読売文学賞、1985年『忠臣蔵とは何か』で野間文芸賞を受賞したが、後者は諏訪春雄の批判にあい、歌舞伎研究者の認めるところとはなっていない。勅撰集を基準にした日本文学史『日本文学史早わかり』がある。1988年、大野晋との対談『光る源氏の物語』で芸術選奨文部大臣賞受賞。1993年、女性新聞記者を描いた『女ざかり』がベストセラーになるが、題名からポルノと勘違いする人もいた。99年『新々百人一首』で大佛次郎賞受賞、2003年には『源氏物語』千年紀にあわせて、『輝く日の宮』を刊行、泉鏡花文学賞を受賞した。

芥川賞の選考委員を1978年から85年まで務め、一度やめてから90年に復帰し、97年まで務めた。辞めて復帰するのは大江健三郎と同時期だったが、大江が文藝春秋が右傾したのを忌避した結果なのに対し、丸谷が辞めた理由は不明。吉行淳之介ともある程度親しかった。石川淳を師と仰ぎ、大岡信らと歌仙を巻いたりしていた。

1988年にはナボコフを下敷きにした「樹影譚」で川端康成文学賞を受賞するが、種田山頭火を背景にした『横しぐれ』とともに出生の秘密を扱っている。『横しぐれ』はデニス・キーンが英訳し、91年にインディペンデント誌の外国小説賞を受賞した。

1993年、張競の『恋の中国文明史』に選考委員として読売文学賞を授与、絶賛し、日本と中国の恋愛観の違いに着目して『恋と女と日本文学』を書いた。

2001年、菊池寛賞、2003年、朝日賞を受賞。『オール読物』には長くエッセイを連載し、ある程度まとまると単行本にしていた。2006年、文化功労者、2011年、文化勲章受章。2009年、ジョイス『若い芸術家の肖像』で読売文学賞を受賞。

文壇には「丸谷派」と言うべき一派があり、山崎正和のほか、辻原登、池澤夏樹三浦雅士、張競らが集っていた。