丸田芳郎
丸田 芳郎(まるた よしお、大正3年(1914年)12月16日 - 平成18年(2006年)5月30日)は、企業家で花王の元社長、元会長である。工学博士。花王を飛躍的に成長させた中興の祖と言われる。
経歴[編集]
1914年12月16日、長野県更級郡信田村(現長野市)に生まれる。昭和10年3月、桐生高等工業学校(現群馬大学)応用化学科を卒業する。花王石鹸の前身のひとつ大日本油脂に入社する。花王は1887年(明治20年)、洋小間物商「長瀬商店」として創業し、3年後に花王石鹸を発売していたが、「花王石鹸株式会社長瀬商会」の吾嬬町工場は「大日本油脂株式会社」として独立されていた。
丸田芳郎は花王石鹸で研究部門で働いていたが、製造部門ともめることがあり、なじめないところがあった。同期生は丸田を避け、飲み会に誘わず、夜も実験室に残り実験を続けていた。第1次世界大戦中にせっけんの主要原料の牛脂が輸入できなくなり、国策として推進された硬化油工業の関連の研究を行い、開発に成功して認められる。また航空潤滑油を開発し、航空潤滑油の合成は化学工業史上に残る事業とされている。和歌山工場で工場長となったが、工場では陸軍の無理な要求に逆えず、大事故を起こして13名の死者を出す事故を経験した。
1946年(昭和21年)、「花王石鹸株式会社長瀬商会」が「株式会社花王」に改称する。1948年(昭和23年)3月に京都大学から、航空潤滑油を開発で丸田芳郎は工学博士号を取得した。米国視察で合成洗剤に出会い、合成洗剤の開発、製造を社内で強硬に主張した。半年の開発期間を経て、発売すると新商品は予想以上の売れ行きを示した。丸田が開発した商品の多くは成功を納め、戦前まで石鹸メーカーの花王石鹸は、年商3306億円(昭和59年3月期)の総合化学・家庭用品メーカーに成長した[1]。
その後、営業支配人となり、全国の卸店の経営者と交渉し、花王の中間流通を担う花王販社、(株)多喜屋花王商事(東京)、(株)松花商事(神戸)などを設立した。昭和29年(1954年)、取締役となる。1956年(昭和31年)、常務取締役、1968年(昭和43年)、専務取締役、1969年(昭和44年)、副社長を経て伊藤英三の死去により1971年(昭和46年)10月、社長に就任する。社長就任後は創造性の重視、人間性の重視、消費者優先という三つの理念を掲げた。基礎科学を追究する体制を作り上げるため、幅広い分野の基礎研究人材を集めた。
平成6年(1994年)、80歳になったのを機に相談役になり、平成18年(2006年)5月30日、肺炎のため91歳で死去した。
人物[編集]
- 同業他社とシェア争いを考えることはない、魂のこもった商品が店頭に並んでいるかどうかが重要であると語る[2]。
受賞[編集]
- 1988年(昭和63年)6月、スペイン市民功労勲章。
- 1991年(平成3年)12月、第7回優秀企業広報賞特別賞受賞[3]。
- 1991年(平成3年)3月、ドイツ連邦共和国功労勲章大功労十字章。
- 1995年(平成7年)4月29日、勲二等旭日重光章。
参考文献・注釈[編集]
- ↑ 佐々木聡(2017)『丸田芳郎―たゆまざる革新を貫いた第2の創業者』PHP研究所、ISBN:9784569834290
- ↑ 丸田 芳郎(花王 中興の祖)
- ↑ 企業広報賞経済広報センター