プロイセン

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

プロイセンは、ロシアポーランドにまたがる一帯で使われてきた地名である。

概要[編集]

バルト海沿岸、ロシアのカリーニングラード州を中心に、ポーランド北東部のヴァルミア・マズールィ県ポドラシェ県の一部に及び一帯の呼称である。かつて、ドイツ北部からプロイセンに及び広大な地をドイツのホーエンツォレルン家が支配し、その広大な領邦の名前としてプロイセンが採用された。

名称[編集]

「プロイセン」はドイツ語での呼び方。ポーランド語では「プルスィ」、リトアニア語では「プルーシヤ」、ロシア語では「プルッシヤ」。日本ではかつて、英語名「プラッシア」に準じた「プロシア」と呼ばれていた。漢字一文字で略すと「普」。

地理[編集]

バルト海沿岸の、ヴィスワ川から東、ネムナス川から南が大まかなプロイセンの範囲である。ヨーロッパ平原の平地である。中心都市はカリーニングラード

気候[編集]

湿潤大陸性気候(Dfb)あるいは西岸海洋性気候(Cfb)に属する地域が多い。気温は根室あたりと近い。

歴史[編集]

かつて、リトアニア人に近いプロイセン人がこのあたりに住んでいた。

中世になると、南にポーランドが大国になりつつあり、プロイセンの征服を目論んだ。そこで、当時ハンガリーにいた武装修道会であるドイツ騎士団を招聘。プロイセンを征服し、プロイセンはドイツ騎士団の領地となった。14,15世紀のドイツ騎士団領の時代に、プロイセンはドイツの東方植民によりドイツ化が進んでいく一方、ポーランドとは関係が悪化していく。

1510年、ドイツでブランデンブルク選帝侯を世襲するホーエンツォレルン家の出身で、ポーランド王の甥でもあったアルブレヒトがドイツ騎士団総長となった。アルブレヒトの時代に、ドイツ騎士団国はポーランドに吸収され、アルブレヒトはポーランド王国のプロイセン公となった。1611年に、ブランデンブルク選帝侯ヨハン・ジギスムントがプロイセン公となり、ブランデンブルクプロイセンの同君連合が成立した。ただし、ブランデンブルクは神聖ローマ帝国の、プロイセンはポーランドの一部で、ホーエンツォレルン家は両国の皇帝・王の臣下という立場であった。また当時、両領邦は接しておらず、飛び地になっていた。

1657年に、プロイセンがポーランドより独立、プロイセン公国となった。1701年、ブランデンブルク・プロイセンの領主であるフリードリヒが「プロイセンの王」フリードリヒ1世となり、以降双方を合わせてプロイセン王国と呼ばれる様になった。その後プロイセン王国は拡大を続け、ブランデンブルクとプロイセンのそれぞれの領域が繋がり、ドイツの北半分とポーランドの西部・北部を領有する大国となった。なお、名前はプロイセンであったが、首都は旧ブランデンブルク側のベルリンで、ブランデンブルク側が事実上の本国であった。

1871年に、プロイセンを中心に神聖ローマ帝国由来の国の多くが合併し、ドイツ帝国となった。プロイセンもドイツ帝国に組み込まれた。その後第一次世界大戦でドイツが敗北、3ヶ国に分割されて消滅していたポーランドが再び独立した。この時にドイツはグダンスクあたりで分断され、プロイセンはドイツの飛び地(東プロイセン)となった。

その後第二次世界大戦で再びドイツが敗北。プロイセンはソ連ポーランドに割譲され、ドイツ系住民はプロイセンを去り、それまでのドイツ文化は失われた。ソ連領となった地域は、ソ連崩壊後ロシアの飛び地、カリーニングラード州となって現在に至る。

脚注[編集]