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フランス国鉄

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
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フランス国有鉄道(フランス語: Société Nationale des Chemins de fer Français、略称 SNCFとはフランスの国有鉄道事業を総括する鉄道事業者である。

ロゴ

概要[編集]

パリ近郊のサン-ドニに本社を置くフランスとモナコのほぼすべての鉄道輸送、高速鉄道、パリ郊外のRER列車の一部、パリの路面電車4系統を運行している。子会社のSNCFレゾーは路線網を所有・管理する。

SNCFの従業員数は約27万人で毎日約14000本以上の列車を運行している。2005年の輸送人員は約9億7400万人で、このうち6億3200万人がパリ市内の路線である。

パリを中心に放射線状に各地方を結んでいるのが路線網の特徴である。隣国ドイツと異なり、パターンダイヤはあまり浸透していない。

歴史[編集]

1937年の創立まで[編集]

フランスで最初に路線が建設されたのは1830年頃で、すぐにさまざまな私鉄会社が設立され、路線の建設が始まった。1870年までにフランスの主要都市は17,430㎞の鉄道網で結ばれた。

フランスの鉄道政策において重要な部分は、1879年7月17日に法律となった「フレシネ計画」触れ〇ねではないというフランス国内の人口1500人以上の全ての町が鉄道で結ばれるようにする計画である。その結果、1914年までにフランスの鉄道網は全長39400㎞にまで拡大した。つまりフランスの全ての県と主要な町が鉄道で接続された。

しかし各私鉄会社は自己資金で鉄道網の拡大ができず、政府が鉄道建設に介入せざるを得ない場合もあった。1870年代後半には、鉄道の国有化の必要性について議論が行われた。この目的のために、当初は経済的に厳しい鉄道会社の援助会社として機能した国有会社であるChemins de fer de l'État(ETAT)が設立された。ETATは1909年に西フランス鉄道を買収した後、重要性を増し、最終的にはフランスの大部分をカバーするようになった。

第一次世界大戦語、経済が疲弊し鉄道網に疲弊をもたらした。これは道路輸送との競争が高まった。1929年世界恐慌が発生すると政府は鉄道の国有化を検討し始めた。

1930年代には道路輸送との競争が激化し、特に狭軌線が影響を最も受け1930年には多くの狭軌線が廃止された。(鉄道路線廃止の第一波)

SNCFの設立[編集]

1937年8月31日、「国有鉄道会社」の設立が契約された。この契約は1938年1月1日から45年間有効であった。この契約の目的は国の管理下に鉄道の運営をして、赤字を解消することであった。そして東フランス鉄道(Est)、南フランス鉄道(Nord)、パリ=リヨン鉄道(PLM)、パリ=オルレアン鉄道(PO)、ETAT、アルザス=ロレーヌ鉄道管理局(AL)が合併統合されフランス国有鉄道(SNCF)が設立された。

SNCFは旧鉄道会社から蒸気機関車15235両、電気機関車723両、電車455両、その他車両671両を引き継いだ。

第二次世界大戦中[編集]

独仏休戦協定によりSNCFはドイツ占領下の管轄になった。しかしSNCFの経済的な維持をする試みがなされた。条約によって優先されたドイツ軍の列車に加え、大規模な列車の運行が維持された。しかしアルザス=ロレーヌ地方ドイツ帝国鉄道の管理下になった。さらに高性能な機関車など多くの車両をドイツに引き渡さなければならなかった。

SNCFはやはりポーランドの絶滅収容所へのユダヤ人の強制移送に関与していた。そのため2006年6月に自由の剥奪と非人道的な収容に対する判決が下された。しかし強制移送に関与したSNCFの運営とは対照的に多くの鉄道労働者は、軍隊や軍需品を運ぶのに労働力が必要であり強く抗議していた。マルセイユの地方総局長だったアンリ・ラングはユダヤ人だったため1940年秋に辞めさせられアウシュヴィッツに移送され2か月後に死亡した。

2010年11月12日、SNCFは初めて、ドイツ占領下におけるユダヤ人強制移送への関与について「深い悲しみと遺憾の意」を表明した。そしてアメリカからの圧力で2012年5月23日に強制移送のさらなる調査に関する合意に署名、2014年12月5日、SNCFは強制移送者の生存者と遺族に6000万米ドルの賠償金を支払うことで合意した。

戦後[編集]

戦後、戦争で伊津部破壊された鉄道網の復旧が始まった。同時に道路、航空の輸送との競争が激化した。そのためより質の高いサービスと技術的に先進的な技術を早くから焦点を当てた。まずは単相交流による鉄道網の電化が早期に行われて1955年に鉄道車両の世界記録が樹立されたことはこの発展が著しく表れている。

1969年に、鉄道路線廃止の第二波が起こり、支線網は大幅に縮小された。

鉄道が他の交通手段よりも優遇されることを避けるため、1937年の契約の改正が1971年1月27日に行われた。それ以降、SNCFはすべての費用を自ら負担し、バランスの取れた結果を確保しなければならなくなった。国は、割引運賃と公共鉄道輸送サービスの追加費用のみを補助した。その見返りとして、SNCFは旅客および貨物輸送を拡大することになった。しかし、石油危機とフランスの重工業の衰退によって、計画された発展は妨げられた。特に、経済的に重要な石炭と鉄の輸送はほとんど崩壊した。こうした状況のなか、SNCFは旅客輸送に焦点をあてることにして、高速列車TGVを開発することになる。

TGVの登場[編集]

数年の建設期間を経て、1981年9月にパリとリヨンを結ぶ高速鉄道(LGV南東線)が開通した。TGVは時速260㎞、のちに270㎞での走行をした。この路線網と組み合わせた高速線のコンセプトにより、SNCFは世界における高速輸送のさらなる発展のパイオニアとなった。

ちなみに1937年の契約は1982年12月31日に失効した。SNCFは国有化され、国によって新しい規則が与えられた。

その後もSNCFは高速鉄道網の拡大を続け、ユーロスタータリスアレオリリア (列車)などの列車を導入した。

フランス各地方との間で、地域輸送サービスの提供と資金調達に関する協定が結ばれた。 特に、地方はSNCFから必要な機関車と客車を購入した。EUの実施により、鉄道網は1997年から2014年まで、この目的のために設立された公営企業レゾー・フェレ・ド・フランス(RFF)に属することになった。これの一環として、インフラの管理が新会社に移管された。また国はSNCFに残された管理を引き継ぎ、従業員の雇用を確保することを約束した。またRFFに対しては、路線使用料が支払われた。協定に基づき、SNCFはRFFの運行管理および鉄道網のメンテナンス業務を引き受けた。

2005年初頭、EUはSNCFの貨物輸送部門に対する政府からの数十億ユーロの支援を承認した。それと同時に操車場を大幅に削減し貨車輸送も大幅に削減した。

2005年3月にSNCFは新しいロゴに変更した。

スペイン国鉄(RENFE)とSNCFの合弁会社エリプソス(Elipsos)は、2013年12月よりスペインとフランス間の高速輸送を行っている。パリ、リヨン、マルセイユとバルセロナ、トゥールーズとマドリードなどを結んでいる。これらのTGVおよびAVE列車は、Renfe-SNCF en cooperación/en coopérationの名前で運行されている。

列車[編集]

高速鉄道の列車として、TGVがある。在来線特急は「アンテルシテ」など。

普通列車はTERの種別名がついているが、首都パリのあるイルドフランス州では、パリ近郊の列車がRER、パリと州内各地方を結ぶ列車がTransilienとして運行している。

関連項目[編集]