ナースィル・リ・ディーニッラー

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ナースィル・リ・ディーニッラー1158年 - 1225年10月4日)は、アッバース朝の第34代カリフ(在位: 1180年 - 1225年)[1]。アッバース朝の歴代カリフの中で最も長期の在位を誇り、その治世においての外交政策により一時的にカリフとアッバース朝の権威・権力を復興させた。

生涯[編集]

第33代カリフ・ムスタディーの子[1]。1180年に父が死去したため跡を継ぐ。弱体化したアッバース朝の再建に努め、アイユーブ朝と通じて十字軍エルサレム王国に対するジハード宣言を出した[1]

1194年ホラズム・シャー朝アラーウッディーン・テキシュと通じて弱体化していたセルジューク朝トゥグリル3世を攻め滅ぼした[1]。ところがホラズム・シャー朝が強大化し、テキシュも死去して息子のアラーウッディーン・ムハンマドに代替わりしたため、今度はホラズムと敵対するゴール朝と通じてホラズムの挟撃を策する。しかしホラズムはゴール朝のシハーブッディーン・ムハンマドの攻撃を撃破し、逆に1217年にアラーウッディーン・ムハンマド率いるホラズム軍のバグダード侵攻を受けるが、これは何とか撃破している。

1225年に死去。享年68。跡を子のザーヒルが継いだ。

外交政策を駆使してアッバース朝の権威こそ一時的に高めたが、得られた領土はさほどでもなく、しかも従来の味方が強大化すると敵対するなど信頼できない外交政策を駆使したのでイスラム世界からの批判は大きかった。しかもホラズムとの敵対はかえってホラズムの勢力を衰退させることにもつながり、ナースィル・リ・ディーニッラーの晩年にはモンゴル帝国チンギス・ハーンによる侵攻を受けてホラズムがあっさりと侵略・滅亡する一因を成したとされている。なおチンギスの侵攻はナースィル・リ・ディーニッラーが要請したのではないかとする説もあり、当時の人々の多くがそれを信じたとしている。歴史家イブン・アスィールはナースィル・リ・ディーニッラーがチンギスに要請したことを信じており、イスラム世界がホラズムより強大なモンゴルに侵略される一因を成したのはナースィル・リ・ディーニッラーの罪であると評している。

ナースィル・リ・ディーニッラーの死後、モンゴル軍のイラクイラン方面への侵略が本格化し、彼の後継者らはその対応に追われることになった。

脚注[編集]

  1. a b c d 小和田『世界帝王事典』P92

参考文献[編集]