おさごの方
おさごの方(おさごのかた、生没年不詳)とは、戦国時代の女性である。実父は播磨国龍野城主の赤松政秀で、織田信長の養女となり、関白の二条昭実の側室[1]になったといわれる。記録では「おさこのつほね」「ヲサゴのお方」とある。
略歴[編集]
播磨国龍野城主・赤松政秀の娘。一説に赤松則房の娘ともされるが、則房の場合は信長の息子の世代になるため、これは疑わしい。実父に関しては「はりまのくにあかまつのむす(め)」と記録があることから、赤松氏の娘であることは間違いないのだが、あくまで赤松とあるだけで、詳しいことは不詳である[2]。
最初は室町幕府第15代で最後の征夷大将軍である足利義昭の上臈となり、天正3年(1575年)3月28日、二条昭実の側室として嫁いだ[3][4]。
ただ、これには別の記録もある。『師廉記』によると赤松息女は足利義昭の上臈だった「おさこのつほね」に「しこう(伺候)のひと」とあり、つまり「おさごの方に仕える侍女」であったと記録されている。しかも同書には信長が最初は烏丸光宣に彼女を嫁がせる予定だったが、光宣が拒絶したので昭実に嫁がせたが、この一件で信長の面子は丸つぶれとなり信長は「以ての外不興」だったと記録されている。
『お湯殿上の日記』では婚礼のことが詳しく書かれており、それによるとその日は朝から小雨が続き、夜には大雨となる悪天候だったが、村井貞勝と朝山日乗が警護して、二条家の家礼である中御門宣教が御樽(祝い酒)を献上して祝意を表し、さらに二条晴良の妹(昭実の叔母)が仲人を務めたと記録している。
昭実には天正10年(1582年)9月21日、男子が生まれているがそれがおさごの方との間の子かどうかは不詳である。昭実は元和5年7月14日(1619年8月23日)に64歳で死去しているが、おさごの方についてはその後は不詳である。