黒田清輝

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黒田 清輝(くろだ せいき、慶応2年6月29日1866年8月9日) - 大正13年(1924年7月13日)は、日本洋画家政治家位階従三位勲等勲二等爵位子爵東京美術学校教授帝国美術院院長(第2代)、貴族院議員。

生涯[編集]

薩摩薩摩藩黒田清兼を父とする[1]。後に伯父の黒田清綱養子になった[1]。清輝は法学を勉強するためにフランスパリ留学した。もともと絵画に秀でていたこともあり、清輝は法学より次第に絵画に興味を抱くようになり、ラファエル・コランに師事する[1]

明治29年(1896年)に白馬会を創設し、さらに東京美術学校の西洋画主任教授となる[1]大正8年(1919年)に帝国美術院会員、そして美術院長となる。大正9年(1920年)に貴族院議員に選ばれて政治家にもなった[1]

大正13年(1924年)7月13日、尿毒症のために死去[1]。享年59[1]

大正時代における日本の洋画のアカデミズムの中心人物として大いに権威を振るった[1]

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h 『事典有名人の死亡診断 近代編』2010年、119頁

参考文献[編集]