非有
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非有(ひゆう、生没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての僧侶。長宗我部氏の家臣で外交僧として知られている[1]。
略歴[編集]
長宗我部家の家臣・谷忠澄の弟。谷彦十郎、谷加兵衛らは甥に当たる。土佐国長岡郡滝本村の真言宗の滝本寺の寺院住職である。国書・経史・仏典に通じた学僧で、長宗我部元親の帰依を受けた。元親からは還俗して家臣の列に加わるように要請されたがそれを断り、生涯を通じて僧体のままを貫いた[1]。
文筆に巧みで外交を主に掌り、使者としての役割を果たした。山内三郎左衛門や久万二郎兵衛、豊永五郎右衛門らと共に長宗我部家の公事評定、軍議に加わり、同家の法令や文書の多くを起草するのに貢献した。内政面でも長岡郡池之村の代官として庄屋の竹内左衛門らと共に活動している[1]。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで長宗我部盛親が敗戦して土佐の浦戸城に逃げ帰ると、盛親の命令で一領具足を浦戸へ集まるように呼び掛けて、徳川家康の追討軍に備える準備をしたというが、その後の行方は不明[1]。
外交僧として活躍したことから、毛利氏の安国寺恵瓊と共に「一対坊主」と称された[1]。