陶濬

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陶 濬(とう しゅん、生没年不詳)は、中国三国時代から西晋にかけての武将。字は世淵。父は陶基。兄は陶璜。弟は陶抗。子は陶湮陶猷。孫は陶馥。甥は陶回

生涯[編集]

揚州丹陽郡秣陵県の出身[1]278年郭馬の反乱の際には徐陵督の地位にあり、7000の兵を率いて兄の陶璜と共に鎮圧を担当する[1]。しかし武昌西晋の侵攻を聞いて279年に首都の建業に帰還する[1]。西晋軍の侵攻に対して陶濬は皇帝孫皓に対して「晋の水軍は小舟ばかりなので、2万の兵と大船で戦えば勝てる」と上奏し、節と鉞を与えられたが一夜の内に兵卒が逃亡したので陶濬も、そして呉もやがて戦意を失って降伏した[1]

西晋に仕えてからは鎮南大将軍荊州牧に昇進した[1]

三国志演義』でもほぼ史実通りに最後の戦いで登場する[1]

光栄のゲーム『三国志シリーズ』では顔芸武将として登場する。

脚注[編集]

  1. a b c d e f 小出『三国志武将事典』P345

参考文献[編集]