閻宝瑟
閻 宝瑟(えん ほうしつ、1108年 - 1133年)は、中国の北宋の女性。皇帝である徽宗の妃の一人となった。靖康の変において女真族の捕虜となり、強姦されて妊娠した。
生涯[編集]
皇帝・徽宗は好色家であり、その後宮には数百人の女性がいた。宝瑟も10代のころに後宮に上がったと考えられる。彼女は婉容という妃嬪のなかで比較的高い位を授けられ、宝瑟は皇帝に性的奉仕を行っていた。
しかし、異民族である女真族(金王朝)の侵攻により、首都の開封が包囲されてしまう(靖康の変)。北宋側はなんとか講和にこぎつけようとし、多くの財宝を送り、徽宗の娘である茂徳帝姫を敵側に捧げた。茂徳帝姫は敵方の慰み者となったが、彼女の犠牲にもかかわらず、新たな皇帝欽宗は捕らえられてしまう。そして、1127年2月には開封は完全に陥落し、徽宗をはじめとする人々が拉致された。多くの皇女・妃嬪その他の女性たちも女真族の軍基地に連行された。彼女たちは兵士たちの性奴隷とされ、凄惨な凌辱を受けた。
18歳の宝瑟も例外ではなく、女真族に捕らえられると、多くの兵士から性的暴行を受けた。その後、宝瑟たちは女真族の本拠地へと連行されることとなる。宝瑟たち女性は、全裸の上に羊のかわごろも一枚だけを下半身にまとった姿にされていた。これは宝瑟たちをいつでも思いのままに犯せるように家畜同然の扱いにしたものだと考えられる。
その後、宝瑟は他の若い女性たち(新王婕妤、才人周春桃、才人狄金奴、才人邵元奴)とともに、徽宗(昏徳公)の監禁されている場所へと連れられた。妃たちと引き離されていた徽宗は、彼女たちとの再会を喜んだと思われる。しかし、徽宗が目にした彼女たちの腹部は大きく膨らんでいた。金軍の将兵たちに輪姦される日々を送っていた宝瑟たちは、子を孕んでいたのだった。翌年春、宝瑟たちは出産した[1]。この父親不明の子は、徽宗によって殺されたと考えられる。
こうした悲劇にもかかわらず、宝瑟は囚われの徽宗に仕え、寵愛を受けた。2年後の1130年春、男子(趙柱)を産んだ。1133年閻宝瑟は25歳で死んた。
子女[編集]
- 男子 - 女真族の兵士の子
- 趙柱 - 徽宗の子
参考文献[編集]
- 『靖康稗史箋證』
脚注[編集]
- ↑ 『靖康稗史箋證』「別有子女五人,具六年春生,非昏德胤」