海舶互市新例
海舶互市新例(かいはくごししんれい)とは、江戸幕府が正徳5年1月11日(1715年2月14日)に発令した貿易統制令である。新例の「例」は「令」ではないので注意を要する。なお、別名を長崎新例/長崎新令(ながさきしんれい)、正徳新例/正徳新令(しょうとくしんれい)とも言われる。
概要[編集]
発令の前後について[編集]
江戸幕府は鎖国した後、オランダと清の2か国に限って貿易を継続していたが、中心的な貿易相手国はあくまで清であった。そして、清の船団には中国人だけではなく、シャムすなわちタイ王国からの国王派遣船なども含まれていた。
江戸幕府ではこの頃、第6代将軍・徳川家宣の側近・新井白石が政権を握っていた。ただし家宣がこの3年前に死去し、4男の家継が幼少の身で第7代将軍に就任してからは土屋政直ら老中らの巻き返しを受けており、白石の権勢には陰りが見えつつあった。そのような中で白石は、貿易を統制する海舶互市新例を立案して発令した。発令者は長崎奉行の大岡清相名義であるが、事実上は新井白石による発令であった。
発令の目的[編集]
この新例の目的は、金銀を日本から流出することを防ぐこと、すなわち貿易制限が目的であった。というのは、当時の日本は金銀がダブついており、そのため外国と比較すると安価に金銀を手に入れることができた。すなわち、日本で安価に金銀を手に入れて、それを外国に持っていけば数倍の価値で取引ができ、大きな利益を得ることができるのである。
当時の日本の貿易は、生糸や漢方薬などが輸入されていたが、その対価として支払われていたのが金銀だった。そして、その支払われた金銀が当時のレートの問題もあってかなりの量が海外に流出していたと見られ、新井白石はこのままでは金銀が日本から消滅するのではないかと危惧していたという。なお、併せて金銀の代替貨幣の材料となる銅までもが不足することを白石が懸念していたこともあるとされる。
白石が出したこの法令により、「中国船は年間30隻」「貿易取引額は銀6000貫(22.5トン)」「長崎への入港は『信牌』という許可証を発行された船のみ」とされた。また「オランダ船は年間2隻」「取引額は銀3000貫(11.25トン)」とされた(信牌の条項は同じ)。さらに輸出品については「俵物、真兪製品、絵画や陶磁器などの美術工芸品に限定」「金銀銅に代わり、俵物による物々交換てきな決済を奨励(あくまで奨励であることに注意)」という制限も定められた。
その後[編集]
この海舶互市新例により、年間貿易額、特に輸入については制限縮小されたが、経済規模を縮小したために経済的な発展がその後において遅れをとるようになった。
なお、新井白石は翌正徳6年(1716年)に家継が夭折し、徳川吉宗が第8代将軍に就任すると失脚する。吉宗は白石を快く思っておらず、白石が断行した正徳の治における幕政改革の多くを否定したが、この海舶互市新例は例外としてそのまま適用し、江戸幕府の長崎貿易の基本方針として幕末まで踏襲されることになった。