鏡山事件
鏡山事件(かがみやまじけん)とは、江戸時代中期の享保9年(1724年)4月3日に石見国浜田藩で起こった事件である。女性の敵討ち、として知られている。
概要[編集]
発端[編集]
浜田藩では第3代藩主・松平康員に子が無く、家督を継ぐ予定だった実弟の松平康房も早世し、分家を巻き込んだ後継者争いの末に松平康豊が康員の後継者となった。しかし、分家出身の康豊には地盤が無かったため反対派が家中に多く存在し、それを抑えるために同じ石見国津和野藩主の亀井茲親の娘を正室に迎えたりして、血縁関係から藩主としての権力を強化しようと図った。
この正室が輿入れしてきた際、亀井氏から落合沢野という正室御付の局がやって来た。沢野は正室の側近であるのをいいことに権勢を恣にしたという。彼女は年齢が60歳で短気だが[1]、頭が良く[2]、そして性格が厳しくて周囲から嫌われたという。特に若い女中などは沢野を敬遠した。このため、正室は奥の雰囲気を和らげるために新たな中臈を雇うことにした。その結果、大和国郡山藩の元藩士の娘・岡本道とそれに付く召使として松田察という2人の女性が雇われた。松田は長府藩の足軽頭である松田助八の娘で、体格は女性ながら大きくて力も強く、武芸にも通じた男勝りの女性だったという。道も藩士の娘で気が強く、そのためこの2人は姉妹のように気が合って仲良くなった。
そして、享保9年(1724年)4月3日に浜田藩江戸藩邸で事件が起こる。奥から急遽、道が召されたので赴こうとしたが、そういう時になって自分の草履が見つからなかった。あちこち探すも見つからず、やむなく他人の草履を拝借して奥に赴き、用事を済ませて帰ろうとした。ところがその際、沢野と出会ってしまったのが不運だった。道が拝借していたのは実は沢野の草履だったのである。そのため、沢野は道を厳しく追及した。言い訳のしようがない道は、平謝りに謝って詫びたが、沢野は「父親が浪人すれば娘も心まで賤しくなるものか。他人が履いた草履などわらわには要らぬゆえ、御入用なら差し上げよう」と草履を突きだし、別の草履を履いてその場を後にした。
沢野は自らの部屋に変えると、待っていた察に何事も無かったように振る舞っていた。しかし、心中では自らだけならばともかく、父まで引き合いに出されて家名まで傷つけられたのが無念だった。そして翌日、察に自らがしたためた書状を両親に届けるように頼んで遠ざけると、道は父からもらった守り刀で喉を突いて自害した。
復讐[編集]
姉妹のように仲の良かった察には前日から、道の様子が何となくおかしいことには気づいていた。そのため、書状を届ける最中に何か不安を感じて引き返したが、時既に遅く道は自害していた。驚いて道の死体に近づいた察は、近くに道が自分宛の遺書を遺していたのを見つけて読むと、そこには自分の不始末のこと、そして沢野に家名まで傷つけられたのが我慢できないので自害する旨が書かれていた。
これにより、察は沢野への復讐を誓う。そして道の死がまだ誰にも知られて無い内に、沢野の部屋に出掛けて、察が気分が悪いというので臥せているので取り計らってほしい、と道の部屋に誘った。そして、沢野が道の部屋に来ると、察はいきなり沢野に飛びかかって押し倒し、道が自害した際に使用した守り刀で沢野を刺し殺した。
これにより江戸藩邸は大騒ぎとなり、奥家老の堀次郎太夫、大目付の小池利右衛門が急いで駆けつけると、察は沢野と道の遺骸の傍に座って2人に堂々と「主人の仇を討ちました。主人の恥は家来の恥。道様を1人犬死にはできませんでした。どのように御咎めを受けても決して恨みに思いません」と言うだけだった。やむなく、2人は察を幽閉して取り調べを行なった。
その後[編集]
この事件は隠せるわけがなく、藩主の康豊にもやがて知られて小池が取調べの総責任者となって詮議が進められた。証拠品として、道が両親に宛てた手紙、これは実は彼女が両親に宛てた遺書であった。また、察に宛てた遺書があった。これが決め手となり、詮議では道の敵討ちが認められた。その上で、「我が儘な振る舞いであるが、主の敵討ち。男子も及ばぬ天晴れなこと」として察は無罪とされた。その上で、浜田藩の奥において重用されることになり、名も察から松尾と改めることを許された。後に松尾は27歳の時に松井松平家の御用人だった神野氏と結婚し、領国の浜田に帰国することを許されたという。
この事件はやがて世間にも知られ、察こと松尾は「烈女」としてもてはやされるようになった。この事件から60年後、浄瑠璃の「加々見山旧錦絵」(かがみやまこきょうのにしきえ)にこの事件が脚色されて上演されることになった。