立原正秋

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立原正秋(たちはら まさあき、1926年1月6日-1980年8月12日)は、朝鮮出身の小説家。

人物[編集]

朝鮮慶尚北道生まれ。出生名は金胤奎(キム・ユンキュ)。早稲田大学文学部国文科中退。能楽など日本的美にとりつかれ、また食通でもあった。丹羽文雄主宰の『文学者』に所属して小説を書き始め、1964年「剣ヶ崎」、65年「薪能」で芥川賞候補になるが、65年「漆の花」で直木賞候補、66年「白い罌粟」で直木賞を受賞したが、当人は純文学志向が強く、芥川賞のほうが良かったと言っていた。

同人誌『犀』、『早稲田文学』などの編集員としても活躍。

以後、多くの川端康成的耽美派小説を連載し、人気作家となる。鎌倉に住み、能楽鑑賞を好み、川端や里見弴に憧れ、日本人になろうとした。米本光代と結婚し、米本正秋を名のったが、死没の2ヶ月前に立原正秋に改名した。

『諸君!』の連載エッセイで当時の芥川賞の選考を批判し、同誌が文藝春秋の発行だったため問題となって『潮』に連載の場を移したことがある。また文壇の大御所的存在だった舟橋聖一を批判したこともあり、概してケンカっ早く、平野謙が故人の川端康成を陥れようとしたために平野と絶交状態になったこともある。

54歳でがんのため死去。友人だった高井有一はのち『立原正秋』で、その不器用な生き方を描いた。