酒井広親

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酒井 広親(さかい ひろちか、? - 元中9年/明徳3年(1392年))は、南北朝時代から室町時代初期にかけての武将松平氏の家臣。酒井氏の先祖。

生涯[編集]

父は松平家初代の松平親氏庶子。母は酒井与右衛門の娘。通称は雅楽頭あるいは雅楽助。母の姓が酒井であったこと、恐らく生地が三河国幡豆郡酒井村であったことから、酒井の姓を称して親氏に仕えた。『三河物語』では「西三河坂井の郷に立ち寄られ、お足を休められた。そのおり、淋しさゆえに身分低い者にお情けをかけられ、若君をひとり儲けられた」とある。これが広親と見られ、系図によって親清(ちかきよ)ともされている。

親氏は後に松平家の入婿となり相続人となったため、広親と会うことは無く、松平家の相続人になってから広親と会った際に「間違いなく我が子である。しかし他家の家督を相続した上では長男とは言えないので、家の子(家来)としよう」と述べたとも、「自分が松平を継いだ以上、他家で生まれた者を家督に立てることはかなわないから、向後は雅楽助と称して松平家第一の家臣として忠勤を励め」と述べたともいわれる(『三河物語』)。

南北朝時代が合一された年に死去している。妻は不詳だが、広親には酒井氏忠酒井家忠の2人の男子があり、家忠の子孫は酒井雅楽頭系、氏忠の子孫は左衛門尉系の2つに分かれてそれぞれ松平家、そして徳川氏に仕え、徳川家康の時代には酒井忠次を、さらに江戸時代には多くの幕閣を生み出して主家の発展に貢献した。