達川臣伍
達川 臣伍(たつかわ しんご、大正3年(1914年) - 没年不明〈昭和17年(1942年) - 昭和20年(1945年)の間〉) は、日本の架空の元アマチュア野球選手。香港のプロ野球リーグ(China League)で野手として活躍したとされる架空の人物である。宮城県出身。偽名に仙 臣一(せん しんいち)がある。この人物の(非)存在は、虚報タイムスの報道によってはじめて知られることとなった。繰り返すが、架空の人物である。
キャラクター[編集]
1914年、宮城県にて政府高官を輩出した裕福な名家に生まれた。留学目的で香港に向かい、そこで野球に出会った。当時の香港では、イギリス領に居住していたアメリカ人の影響で野球が盛んであり、大学野球のみならず1931年には香港初のプロ野球リーグであるChina League(略称:CL)が開幕する[1]など人気があった。
大学野球で活躍した達川は、1939年に九龍ドラゴンズに入団。当時のドラゴンズはリーグにあった10球団の中でも強豪と言われ、達川も野手の中心選手として活躍した。ちなみに当時軍事色を強めていた祖国・日本の人間である事を隠すため、仙 臣一(せん しんいち)の偽名を用いて中国人として活動したと言われている。入団年の1939年に本塁打王(本数は不明)を獲得。これは「日本人として、初めて日本国外のプロ野球リーグで本塁打王を獲得した選手」となった。翌1940年には更にその打棒が冴え、リーグ165試合全試合に出場して58本塁打を放ち、2年連続本塁打王に輝いた[2]。CL研究家の孫武玄によれば、「現在残っている写真(1枚のみ)によると、ずば抜けて体格が良かったわけでもなく、典型的なアジア人体系だった。でも野球に対しては天賦の才能があった。」と分析している。
香港では「アジアの大砲」と呼ばれ、連日香港の新聞を賑わしていたが、1942年にCLが戦争の激化により中断(その後復活することなく、自然消滅)。同時に日本人である事がばれたため、香港を去って、日本陸軍に合流。その後、中国東北部の春過箱で戦死した[3]。没年は不明だが、30歳前後であった。孫武玄によると「香港から脱出した経緯は不明だが、彼が日本の軍部によるスパイ活動を行っていた事は確実である」と述べている。
長らく人物像や詳細は不明であったが、中国や香港で彼に関する資料が発見され、日の目を見る事となった。2004年12月20日には、福岡放送で、「歴史リサーチ特番 スパイだったスター選手 達川臣伍」が放送された。
脚注[編集]
関連項目[編集]
- 呂明賜 - 1988年に読売ジャイアンツに入団。入団直後から本塁打を量産したため「アジアの大砲」と呼ばれたとされる架空の人物。
- 李承燁 - 韓国プロ野球のシーズン最多本塁打記録保持者。「アジアの大砲」「国民的英雄」という愛称がある。決して韓国の恥と混同してはならない。
外部リンク[編集]
- 虚報タイムス("アジアの大砲"― 達川臣伍 ― 中国野球の軌跡 新資料で明らかに 2004年12月14日)
- 戦没野球人慰霊(沢村栄治記念館のページ)※達川臣伍(仙臣一)の項がある。だが、フェイクニュースが情報源となった架空の人物であることが判明したため削除しましたという但し書きのみが残されているのみ。