藤原彰子

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藤原彰子(ふじわらのあきこ、しょうし)は、平安時代の皇后中宮)である。

生涯[編集]

988年、藤原道長の子として生まれる。時の天皇は藤原氏の傀儡で、後に夫となる一条天皇。天皇の外祖父として摂政の地位にあり、事実上の最高権力者であった藤原兼家は祖父にあたる。父の道長は兼家の五男(正妻の三男)であり、藤原摂関家の後継者とは見られていなかった。しかし、兄の道隆道兼が相次いで死去、996年の長徳の変で道隆の子の伊周も失脚、道長が最高権力者となった。

1000年、従兄でもある一条天皇のもとに入内。彰子11歳、天皇19歳であった。天皇には既に中宮藤原定子がいたが、定子の兄弟(伊周、隆家)は既に力が無く、父道長のゴリ押しで彰子が中宮となった。翌1001年に皇后定子が死去、以降一条天皇の唯一の正妻となる。父の権力のもと、彰子の暮らしは充実しており、紫式部和泉式部と文才に優れていた女房がいたことで有名である。

1011年、一条天皇が譲位後すぐに崩御。彰子は皇太后となる。1016年には、道長のゴリ押しの効果もあり、彰子の長男である後一条天皇が7歳で即位。道長は天皇の外祖父となり、権力は盤石となった。彰子は対皇太后となり、三条天皇妃であった妹の姸子が皇太后となった。1018年には妹の威子が後一条天皇の中宮となり、道長の娘が三后を独占、これにより父の道長が「この世をば、わが世とぞ思ふ望月の、欠けたることも無しと思へば」という思いあがった歌を詠んだことが有名である。

1028年には父の道長が死去、弟の藤原頼通が後継者となった。1036年には後一条天皇が死去。その後、次男の後朱雀天皇、孫の後冷泉天皇が相次いで即位するも皆短命であり、1068年には後三条天皇が即位。後三条天皇は彰子の孫であったが、天皇の母が藤原氏出身で無いことから、藤原氏の権勢は落ち始めた。後三条天皇も彰子より先に崩御した。

1074年に崩御。この時、曾孫の白河天皇の時代であった。

同世代の人物[編集]

脚注[編集]

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