藤原定子
藤原定子(ふじわらのさだこ、ていし)は、平安時代の皇后(中宮)である。
生涯[編集]
976年、藤原道隆の子として生まれる。時の天皇は藤原氏の傀儡である円融天皇で、関白藤原兼通は大伯父にあたる。当初は、道隆の家系が藤原氏本流となるかはまだ流動的であった。986年、寛和の変で花山天皇が退位、まだ5歳の一条天皇が即位した。これにより、定子の祖父で、一条天皇の外祖父でもある藤原兼家が摂政、後に関白となり、権力の掌握に成功した。
990年、従弟でもある一条天皇のもとに入内。定子13歳、天皇9歳であった。ほどなくして兼家死去、関白の地位は兼家の長男で定子の父である藤原道隆が継承した。その後すぐに、正式な皇后である中宮となる。当時、皇后としての扱いを受けるのは3人までと決まっていて、冷泉天皇の正室である昌子内親王が太皇太后、円融天皇の側室で天皇の母である藤原詮子が皇太后、円融天皇の正室である藤原遵子が中宮と既に3人の枠が埋まっていたが、父道隆のゴリ押しで4人目の皇后となった。
中宮となって以降の約5年間が、父の傀儡天皇の正室として、最も幸福な時期であった。特に、女房には文才のある清少納言がいて、後に当時の華やかな暮らしを枕草子という随筆に残している。
しかし、995年、道隆の死により状況は一変。兄の藤原伊周が後継者になると見られていたが、叔父の藤原道長との権力争いになる。翌996年、伊周が花山法皇を襲撃したとの噂が広がり、伊周が失脚(長徳の変)。変の中で、定子も落飾してしまった。これにより、道隆の血筋である中関白家そのものが没落の一途をたどり、定子も不遇の人生をおくることになる。999年には、新たに権力を握った藤原道長が、自身の娘である藤原彰子を入内させ、翌1000年に中宮とした。
1001年、出産直後に崩御。以降、道長により彰子の子孫ばかりが優遇され、定子の子は冷遇されることとなった。
同世代の人物[編集]
脚注[編集]
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- 出典