米内受政
ナビゲーションに移動
検索に移動
米内 受政(よない ながまさ、安政3年(1856年) - 昭和2年(1927年))は、日本の政治家。海軍大将・内閣総理大臣であった米内光政の父[1]。
略歴[編集]
陸奥国盛岡藩藩士・豊川種房の次男[1]。同じ盛岡藩士で実子が無かった米内秀政の養嗣子となり[1]、米内姓を称した。地元盛岡の戸長などを務めている[1]。
初代の盛岡市長を選出する際には、盛岡市会で最高点を得て後一歩というところで岩手県知事・石井省一郎の反対を受けて市長就任はならなかった。その後、単身で上京して生糸取引などに従事するも失敗し、政界入りと生糸取引の失敗で莫大な借金を築き上げた[1]。
昭和2年(1927年)に71歳で死去。死後、残された借金は長男の光政に引き継がれて、光政はその返済に長年苦しめられたという[1]。