第32軍司令部地下壕跡

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第32軍司令部地下壕跡(だいさんじゅうにぐんしれいぶちかごうあと)とは、太平洋戦争末期の沖縄戦において、日本軍が防衛の主陣地として設置した首里地区の一帯にあった司令部跡のことである。現在の沖縄県那覇市首里当蔵町に存在していた。

概要[編集]

太平洋戦争末期、日本軍の敗色が濃厚になり、アメリカ軍の沖縄上陸が現実味を帯びてきたため、沖縄防衛のため日本軍は首里一帯に第32軍司令部を設置した。首里地区は起伏に富み、入り組んだ地形で高地や丘のいたるところに洞窟陣地が設けられることになる。

昭和20年(1945年4月1日にアメリカ軍が沖縄本島に上陸すると、沖縄は日米両軍の激戦地と化した。日本軍は昼夜を分かたず徹底抗戦し、結果的に首里の攻防戦でおよそ5万人の死者を出した。一方のアメリカ軍も勝利したとはいえ、4月から5月の戦いで4万1417人の死傷者を出した上、この激戦による恐怖などで精神を患う者が5月末までに1万5000名にも上るという大被害を受けている。この数はアメリカ軍の太平洋戦争における一連の戦いの中でも史上最高の大被害であった。このため、アメリカ軍はこれ以上の被害を避けるため、首里一帯に天文学的数字の爆弾を投下し、文字通り一木一草に至るまで焼き尽くし、地形を変えた。

第32軍司令部壕は首里城の地下15メートルから35メートルの深さに、長さおよそ1000メートルにわたって築かれ、ここで沖縄戦の指揮が執られていた。しかし、アメリカ軍の激しい攻撃の前に物量で劣る日本軍は遂に敗れ、4月末に南部の喜屋武摩文仁に後退することを余儀なくされた。

壕の入口は首里城守礼門の下方にあるが、現在では中に入ることはできないようにされている。

アクセス[編集]