立花山城
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立花山城(たちばなやまじょう)は、現在の福岡市東区、糟屋郡新宮町および久山町に跨る立花山の山頂にかつて存在した日本の城。立花城(たちばなじょう)とも言われる。
概要[編集]
新宮町の南端に盛り上がった立花山一帯に存在した山城である。鎌倉時代末期に豊後国守護の大友貞宗の嫡男・大友貞載が築城した。この貞載とその子孫は後にこの城の地名をとって立花氏を称し、大友宗家に対して「西大友」と言われるほどの強大な勢力を誇った。
しかし、第7代の立花鑑載は毛利元就と通じて永禄11年(1568年)に大友氏から離反する。激怒した大友宗麟は大軍を立花山城に差し向け、鑑載は敗死した。その後、宗麟は自身が信頼する名将・戸次鑑連に立花家の名跡を継承させ、彼は立花道雪を称して天下で知られる大名将として名を轟かせた。この間、立花山城は大友氏と毛利氏との間で争奪戦が繰り広げられた。
近世に入り、この城は廃城となっている。現在では石垣の一部が残るのみであり、頂上の山頂から一望できる景色にはなかなかのものがある。