益子城
ナビゲーションに移動
検索に移動
益子城(ましこじょう)とは、現在の栃木県芳賀郡益子町益子に存在した日本の城である。別名を高館城(高館山にあったことから)、西明寺城(城の西腹に西明寺があることから)という。
概要[編集]
益子町の南東方、標高302メートルの高館山一帯に存在した山城である。築城に関しては平安時代末期に常陸国信太郡から移った紀正隆によると言われており、その子孫は益子氏を称して居城としたという。この紀氏とは宇都宮氏の一族であった。
正隆の孫である益子正重は、源頼朝の奥州征伐に従軍して武功を立てた。その玄孫の益子貞正は出雲守となり、南北朝時代に南朝の重鎮・北畠親房に従って関東六城主の一人として重きをなす。しかし、この城は観応の擾乱の際に北朝方に攻められて落城した。後に南北朝合一後の応永年間に益子勝直が修築して城に入っている。
現在の研究では山頂部の本丸は土塁によって4つに分けられており、次いで2の丸、3の丸跡があり、城郭の一部に使われたと推測される石材も散在している。本丸下には練兵場、武者溜と見られる平坦地もあり、そこには井戸の跡も存在していたようである。