牽弘
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牽 弘(けん こう、? - 271年)は、中国の三国時代の魏から西晋にかけての武将。父は牽招。兄に牽嘉。甥に牽秀。
生涯[編集]
涼州安定郡観津県の出身[1]。牽招の次男で、263年の蜀征伐では隴西郡太守として鄧艾に従い、緜竹の戦いで功績を立てて蜀滅亡に貢献した[1]。蜀滅亡後の戦後処理も担当して振威将軍に任命された[1]。
西晋の時代には揚州刺史、涼州刺史に任命されるが、271年に北地胡(鮮卑族)の反乱で戦死した[1]。
涼州に赴任する前、陳騫から武帝に対して「牽弘は勇敢だが思慮分別がなく、辺境を安定させることはできない」と提言して赴任に反対していたのだが、その予言は的中してしまった[1]。
『三国志演義』では鄧艾の蜀征伐に従軍して活躍している[1]。