「日章旗」の版間の差分
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'''日章旗'''(にっしょうき)は、[[日本国]]の[[国旗]]にあたる[[日の丸]]の[[旗]]。[[嘉永]]6年 ([[1853年]]) の[[マシュー・ペリー]][[黒船来航|来航]]後、対外関係上国旗の制定が不可避となり、[[薩摩藩]]主・[[島津斉彬]]の考案に基づいて採用されたとされている。[[明治]]3年 ([[1870年]]) 1月、[[明治政府]]は郵船及商船規則 (太政官布告 57号) で商船の掲げるべき国旗として、さらにその年の10月の太政官布告651号で軍艦用の国旗として日章旗の規格などについて定めた。しかし、日章旗を国旗と定める明文法の規定ではなく既成事実として追認したものであったため、[[平成]]11年([[1999年]])[[8月]]に、[[国旗・国歌法]] | '''日章旗'''(にっしょうき)は、[[日本国]]の[[国旗]]にあたる[[日の丸]]の[[旗]]。 | ||
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法律は、縦は横の三分の二、日章(赤い円)の直径は縦の五分の三、日章の中心は旗の中心と定めている。 | |||
赤い円の[[面積]]は、旗全体の約19%である。 | |||
他の似たような国旗として[[パラオ]]や[[バングラデシュ]]がある。 | |||
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==関連項目== | ==関連項目== | ||
*[[日の丸]] | *[[日の丸]] | ||
*[[日の丸弁当]] | |||
*[[国旗]] | *[[国旗]] | ||
2023-05-28T02:52:25時点における版
白と赤の2色で構成され、白地の中心に太陽を表す赤い円が描かれる。
嘉永6年 (1853年) のマシュー・ペリー来航後、対外関係上国旗の制定が不可避となり、薩摩藩主・島津斉彬の考案に基づいて採用されたとされている。明治3年 (1870年) 1月、明治政府は郵船及商船規則 (太政官布告 57号) で商船の掲げるべき国旗として、さらにその年の10月の太政官布告651号で軍艦用の国旗として日章旗の規格などについて定めた。しかし、日章旗を国旗と定める明文法の規定ではなく既成事実として追認したものであったため、平成11年(1999年)8月に、国旗・国歌法が制定されようやく日章旗が正式な国旗と規定された。
法律は、縦は横の三分の二、日章(赤い円)の直径は縦の五分の三、日章の中心は旗の中心と定めている。
赤い円の面積は、旗全体の約19%である。
ギャラリー
国旗国歌法の本則における日章旗
国旗国歌法の附則の認める日章旗
歴代の日本国旗の一覧
幕府海軍旗(正確には帆の意匠、もしくは長旗)
大日本帝国の国旗
連合国軍占領下の日本の商船旗
関連項目
外部リンク