片岡光綱
ナビゲーションに移動
検索に移動
片岡 光綱(かたおか みつつな、? - 天正13年(1585年))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。長宗我部氏の家臣。官途は左衛門大夫、左衛門督[1]。
略歴[編集]
父は片岡直光。母は長宗我部国親の娘か。兄か一族に片岡茂光がいる[1]。
光綱は長宗我部元親から土佐国高岡郡黒岩城と徳光城の2城も任され、元亀2年(1571年)に長宗我部元親に従って西進し、以後は活躍を重ねたが、天正13年(1585年)の豊臣氏による四国征伐の際、元親の命令で伊予国の金子元宅を助けるために救援に赴き、そこで毛利輝元や小早川隆景ら豊臣家の大軍と戦って敗死した。家臣の藤田馬之祐が光綱の首を持ち帰って、徳光城下に葬った[1]。
法名は前総州太守宝山珍公禅定門。家督は養子・光政が継いだ[1]。