游楚

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游 楚(ゆう そ、生没年不詳)は、三国時代武将政治家。父は游殷仲允(ちゅういん)[1]

生涯[編集]

馮翊郡頻陽県の出身。張既の推挙により魏に仕えて蒲阪県令、漢陽郡の太守、隴西郡の太守と地方官を歴任した[1]228年諸葛亮の北伐により天水郡南安郡諸葛亮に呼応したため、隴西郡も危機的な状況となるが、游楚は動揺する官民に対して「援軍が来れば蜀軍は撃退できて恩賞にも授かれる。援軍が来なければ私の首を諸葛亮に差し出して降伏すればいい」と述べて叱咤激励し、蜀軍の侵略から守りきった[1]。この功績で明帝から昇殿を許されて附馬都尉に任命される[1]。後に北地郡の太守に任命され、70歳余りで死去した[1]

三国志演義』には登場しない。

脚注[編集]

  1. a b c d e 小出『三国志武将事典』P231

参考文献[編集]