浜島辰雄

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浜島 辰雄(はまじま たつお、1916年2月8日 - 2013年10月15日)は、愛知県愛知郡豊明村(現在の豊明市)出身の教育者農業技術者。日本初の河川総合開発である「愛知用水の生みの親」として知られる[1]

経歴[編集]

1916年(大正5年)2月8日、愛知県愛知郡豊明村(現在の豊明市)にある裕福な農家に生まれた[2]。6人兄弟姉妹の末子だった[2]。愛知県安城農林学校(現在の愛知県立安城農林高等学校)を卒業し、1939年(昭和14年)に三重高等農林学校(三重大学農学部の前身)を卒業した[2]南満州鉄道に入社して調査部に配属され、ダムの建設計画に関する論文を執筆している[2]。その後は名古屋陸軍幼年学校教官などを務めた後に、母校の愛知県安城農林学校の教員となった。

戦後の1947年(昭和22年)には大干ばつをきっかけとして、知多半島の農民だった久野庄太郎木曽川から知多半島に大規模な用水(愛知用水)を引く計画を立てた[2][1]。1948年(昭和23年)には浜島が久野の計画に賛同し、12月には2人で計画図を片手に東京まで陳情に向かうと、吉田茂首相に面会して計画を説いた[1]。1950年(昭和25年)には高松宮宣仁親王が愛知用水の計画地域を視察している。1952年(昭和27年)には愛知用水土地改良区が設立され、世界銀行から融資に向けた視察を受けた。1955年(昭和30年)に愛知用水公団が設立されると、1957年(昭和32年)に建設工事を開始し、1961年(昭和36年)に愛知用水の通水式が行われた[1]。愛知用水は農業用水として計画されたが、一部は工業用水や上水道に転用されて愛知県の工業発展に貢献している[1]

2013年(平成25年)10月15日に死去した[2][1]

脚注[編集]

  1. a b c d e f 「愛知用水の『生みの親』 浜島辰雄さん死去 97歳」朝日新聞、2013年10月16日
  2. a b c d e f 惜別 浜島辰雄さん 愛知用水実現へ 熱意の生涯 独立行政法人水資源機構

外部リンク[編集]