泉親衡
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泉 親衡(いずみちかひら、生没年不詳)は、鎌倉時代前期の信濃の豪族。泉親衡の乱(建暦陰謀)を北条義時に対して起こした[1]。
生涯[編集]
清和源氏の血を引く一族で、伊那氏の流れを汲む信濃源氏である泉公衡を父とする[1]。子に満衡。通称は小次郎。
建暦3年(1213年)に鎌倉幕府の第2代将軍・源頼家の遺児である栄実を大将軍に奉じて北条義時を打倒しようとした[1]。しかしこの計画は同年2月に発覚して失敗する[1]。親衡は大力無双を誇る勇士であったため、北条軍の包囲を破って突破し、行方不明になった[1]。
この反乱で和田氏一族の多くが捕縛されたため、3ヵ月後の5月に起きる和田合戦の遠因になった[1]。