江尻篤彦
選手情報 | |
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本名 | 江尻篤彦 |
英字表記 | Atsuhiko Ejiri |
生年月日 | 1967年7月12日(57歳) |
出身地 | 日本、静岡県 |
身長 | 178 cm |
体重 | 70 kg |
ポジション | ミッドフィールダー |
クラブチーム | |
1992-1998 | ジェフユナイテッド市原 |
監督チーム | |
2009-2010 2019 |
ジェフユナイテッド千葉 ジェフユナイテッド千葉 |
江尻篤彦(えじり あつひこ、1967年7月12日 - )は日本のサッカー選手、監督。
来歴[編集]
清水商業高校時代(同級生に真田雅則)の3年次は主将を務め、1985年の全国高校選手権において初優勝を果たした。ダメ押しとなるペナルティーキックを冷静に決め、決勝戦後のインタビューで流した涙が印象的だった。
その後は明治大学を経て1990年に古河電工に入団。Jリーグ参入し名称をジェフユナイテッド市原へ変更した後も1998年までプレーを続け、主に左のMFで試合に出ていたが、チーム事情から左のサイドバックに回ることもあった[1][2]。93年には日本代表で怪我を抱えた左サイドバック都並敏史の代役探しが急務となっていたハンス・オフト監督により日本代表に初選出される。しかし抜擢されたスペイン遠征で機能せず、以降召集されることはなかった。
引退後は千葉の育成部門のコーチとなり、2000年から5シーズンはトップチームのコーチとして監督のズデンコ・ベルデニックやイビチャ・オシムを支えた。その後2005年から2シーズンはアルビレックス新潟のコーチ、2007年から2シーズンはU-23日本代表コーチとしてチームの北京オリンピック出場にも貢献した。2009年から4シーズンぶりに古巣ジェフユナイテッド千葉のコーチとして復帰した。
シーズン序盤からの不振により同年7月27日に監督のアレックス・ミラーが解任され、後任として監督に昇格した。この際、家族会議を開催し「失敗したら家を売らないといけなくなるがいいか」と妻と息子に聞いたうえで了承を得た。その後指揮を執った15試合で1勝しかできず最下位に終わり、前身の古河電工時代を含めてもクラブ初のJ2への降格が決まった。翌2010年も引き続き指揮を執り、1年でのJ1復帰を目指したが、最終的には4位に終わりJ1への昇格を果たせず、この年限りで退任した。
クラブチームの統計[編集]
年度 | リーグ | 番 | 試合 | 得点 | 試合 | 得点 |
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市原 | リーグ | Jリーグ杯 | ||||
1992 | J | - | - | 9 | 0 | |
1993 | - | 36 | 4 | 3 | 1 | |
1994 | - | 25 | 1 | 0 | 0 | |
1995 | - | 43 | 13 | - | ||
1996 | - | 29 | 2 | 14 | 1 | |
1997 | 11 | 30 | 1 | 7 | 0 | |
1998 | 11 | 30 | 3 | 6 | 0 | |
通算 | 193 | 24 | 39 | 2 | ||
総通算 | 193 | 24 | 39 | 2 |