武装蜂起準備委員会

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第四インターナショナル日本支部ボルシェビキ・レーニン派(だいよんインターナショナルにほんしぶビーエルは、略称:BL派)は、革共同系の新左翼党派。機関紙『世界革命』の題字には「日本革命的共産主義者同盟(第4インタナショナル日本支部)」と記載していた。武装蜂起準備委員会(ぶそうほうきじゅんびいいんかい)は第四インター日本支部BL派の下部組織、もしくは第四インター日本支部BL派の後身組織。略称はAIPC、通称はプロレタリア軍団ヘルメットの色は黒

概要[編集]

1958年7月に日本革命的共産主義者同盟から太田竜が脱退して関東トロツキスト同志会を結成した(革共同第一次分裂)。この組織がのちの「ボルシェビキ・レーニン派」へとつながった。1969年刊の『全学連各派』によれば、ボルシェヴィキ・レーニン派(BL派=プロレタリア軍団)は日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)の中の一派である[1]。1967年9月に武装蜂起準備委員会(A・I・P・C、通称「プロレタリア軍団」)が結成された。武装蜂起準備委員会の上部政治団体は第四インター日本支部・日本革命的共産主義者同盟BL派。高校生組織はプロレタリア軍団高校暴力革命戦線大阪府委員会。機関紙誌は『プロレタリア軍団』『叛乱軍情報』[2]

1969年刊の『増補改訂'70年版 全学連各派』によれば、1965年8月の第四インター日本支部の第2回全国大会で多数派と太田派が対立し、太田派が第四インター日本支部・革共同ボリシェヴィキ・レーニン派を名乗って独立した。1967年8月(168頁では9月)に武装蜂起準備委員会、1969年10月にプロレタリア軍団全国学生評議会を結成した[3]。プロレタリア軍団全国学生評議会の上部政治団体は第四インター日本支部・日本革命的共産主義者同盟BL派。高校生組織はプロレタリア軍団高協、高校暴力革命戦線大阪府委員会など。機関紙誌は『プロレタリア軍団』『叛乱軍情報』。プロレタリア軍団全国学生評議会が結成されたとき、武装蜂起準備委員会は「参謀本部政治局」を持つプロ軍団学評の前衛となった[4]

1978年刊の『公安百年史』によれば、武装蜂起準備委員会からプロレタリア軍団に改称した。上部団体は第四インター日本支部BL派[5]

1978年刊の『日本革命的共産主義者同盟小史』によれば、1965年の第四インター2回大会後に太田の分派行動が開始され、旧ICPグループの一部が太田派(のちにBL派=ボルシェビキ―レーニン主義派と自称)を結成した。1966年5月21日に第四インター日本支部の第4回中執が招集されたが、BL派は「中執多数派はすべて解党主義者であり、そのような中執会議は認めない」として出席せず、第四インターから分裂した。その後2年程のうちにBL派も分裂した[6]

1985年刊の『戦後革命運動事典』の「第四インターナショナル日本支部BL派」の項目によると、1966年に太田竜らが第四インターから分裂してボルシェビキ・レーニン派、略称BL派を結成した。「米中戦争不可避論」「毛沢東支持」などを掲げた[7]。「武装蜂起準備委員会」の項目によると、第四インターから分かれた太田竜、近藤公平らが、1967年に法政大学の独立社学同系活動家らと武装蜂起準備委員会を結成した。学生組織はプロレタリア軍団全国学生評議会(プロ軍)。機関紙『プロレタリア軍団』で武装反乱や暴力革命を主張した。法政大学ではしばしば民青と衝突し、立命館大学でも一定の組織力を有していた。反帝全学連全国全共闘の結成に参加した[8]。「日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)」の項目によると、武装蜂起準備委員会はのちにプロレタリア軍団と統一した[9]

千坂恭二によれば、武装蜂起準備委員会は大阪教育大学や立命館大学などでアナキスト革命連合と衝突したことがあった[10]。1974年に朴正煕大統領を暗殺しようとして陸英修夫人を射殺した文世光は武装蜂起準備委員会の高校生組織「暴力革命高校生戦線」(暴革)の出身者だった[11]

旧AIPC党員による説明[編集]

※このセクションはウィキペディアの記事「第四インターナショナル日本支部 (ボルシェビキ・レーニン主義派)」の「旧AIPC党員」を自称するアカウントが編集したバージョン。内部リンク等を一部改変している。

「武装蜂起準備委員会」は、第四インター日本支部から分裂した日本の新左翼党派の一つである。ただし1967年以降は第四インターナショナル日本支部・ボルシェビキ・レーニン主義派(BL派)を名乗ったことはなくそのような組織体も存在しない。

党組織として「武装蜂起準備委員会(AIPC)」が、学生組織に「プロレタリア軍団全国学生評議会(プロレタリア軍団)」、高校生組織に「高校生暴力革命戦線(「暴革」)」がある。

ヘルメットの色は黒で、白い字で大きく「プロ軍」または「AIPC」(Armed Insurrection Preparation Committeeの略であり、武装蜂起準備委員会のこと)と書いていた。彼らは「黒ヘル」と呼ばれていた。

概要
武装蜂起準備委員会(AIPC)は1967年に第四インターナショナル日本支部から分裂した組織である。当初のごく短期間は第四インターナショナル日本支部・ボルシェビキ・レーニン主義派(BL派)を名乗ったこともあったがAIPCとして党組織が確立されて以降はBL派の名を一切名乗っていない。理論的な指導者は太田竜だが太田は実際活動にはほとんど従事していない。トロッキズムを基盤に「ベトナム革命勝利」「反革命日共・民青打倒」を掲げた。拠点校は法政大学立命館大学など。法政大学では第一法学部自治会、二部教養部自治会などを拠点に法政大学全共闘の最大会派として60年代末からの法政大学学生運動を主導した。街頭闘争では赤軍派と分裂する前の中央大学明治大学を拠点とする社学同ブント全学連藤本敏夫委員長・加藤登紀子の夫)と同一行動をとることが多かったため法政大学中核派などはブントの別動隊と見る向きもあった。全国全共闘にも参加していた。太田竜は70年代初頭から朝鮮人被爆者問題やアイヌ解放運動などへ傾斜し民族主義的傾向が強まったため組織とは自然に離れていった。東大安田講堂攻防戦で多くの逮捕者を出したこともあり組織自体も弱体化し70年代初頭からは逮捕者の救対活動が主となり自然消滅の道をたどる。朴大統領夫人狙撃の文世光は「高校生暴力革命戦線」関西フラクションのリーダーであり、戦闘的であるとともに泰然自若とした性格・言動から組織内の人望は高かった。「暴革」時代の彼を知る人の中にはメディア等で伝えられている狙撃に至る経緯、死刑執行前の彼の言動が真実かどうか疑う者が多い。なお70年代初期にBL派が太田竜の処刑命令を出したとの記述は全くの嘘である。そもそも1967年以降はBL派そのものが存在していないし太田竜の組織内での影響力(飾りにはしているが実体的には組織内での影響力は皆無であった。)からして武装蜂起準備委員会がそのような命令を出す理由そのものが無かった。・・・旧AIPC党員記述。

出典[編集]

  1. 社会問題研究会編『全学連各派――学生運動事典』双葉社、1969年、120頁
  2. 『全学連各派――学生運動事典』123-127頁
  3. 社会問題研究会編『増補改訂'70年版 全学連各派―学生運動事典―』双葉社、1969年、164頁
  4. 『増補改訂'70年版 全学連各派―学生運動事典―』168-171頁
  5. 藤田五郎編著『公安百年史――暴力追放の足跡』公安問題研究協会、1978年、120頁
  6. 第四章 労働者の中へ ― 加入活動の時代 ― 日本革命的共産主義者同盟小史
  7. 松村良一「第四インターナショナル日本支部BL派」戦後革命運動事典編集委員会編『戦後革命運動事典』新泉社、1985年、173頁
  8. 板橋真澄「武装蜂起準備委員会」戦後革命運動事典編集委員会編『戦後革命運動事典』新泉社、1985年、251頁
  9. 松村良一「日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)」戦後革命運動事典編集委員会編『戦後革命運動事典』新泉社、1985年、213頁
  10. https://twitter.com/Chisaka_Kyoji/status/392710163078971392
  11. https://twitter.com/Chisaka_Kyoji/status/530722587223916547

外部リンク[編集]