歌川広重

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歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日1858年10月12日))は、江戸時代後期の浮世絵師。本名は安藤重右衛門。別名として安藤 広重(あんどう ひろしげ)とも言われる場合があるが、広重自身はそう名乗ったことは無い。

略歴[編集]

出自は江戸の火消し同心、いわゆる消防士の家であった。広重は後述するが、家族運にはとことん恵まれない不幸な人物だった。

最初の不幸は13歳で両親と死別する。そのため、元服して家業を継承するが、火消しの収入だけでは自分と他の兄弟姉妹を養うには不十分だったため、15歳のときに歌川豊広に入門して浮世絵を学び、その豊広から認められて歌川 広重の名前を与えられて画壇にデビューした。豊広の画風は派手さを抑えた静かなもので、広重はその豊広の画風を踏襲した。天保2年(1831年)、広重は名所絵版画集「東都名所」を発表する。これは本格的な風景画の第一作であり、遠近を増大させるぼかしの技法が用いられ、オランダ舶来の「ベロ藍」(ベルリンブルー)をふんだんに使った異色の作で、その斬新で画期的な風景画で広重の名は一躍名声を高めた。

天保4年(1833年)、広重は世に有名な「東海道五十三次」を発表する。これは遠近法による立体的画法を駆使して目新しい印象を人々に与えた。また伊勢参りの流行や十辺舎一九の『東海道中膝栗毛』の影響もあって広重は街道の風物を旅情豊かに描き、自分があたかもその絵の中の旅人であるかのような気にさせることから、世間で大評判になった。当時、版画は1000も刷れば大当たりと言われたが、広重の版画は保永堂版だけでも2万も刷るというベストセラーとなった。これにより広重の風景版画家としての名は不動のものとなり、天保6年(1835年)には「木曾街道六拾九次」を渓斎英泉と合作して発表。さらに「近江八景」も刊行した。

このように画家としての名声を高めていく一方で、家族運の不幸が再び広重を襲った。天保10年(1839年)に広重の妻が死去。そして、同時期に家業を継承した安藤仲次郎が病気に倒れて火消しとしての活動ができなくなり、やむなく広重は金銭を出して代わりの火消しを探さなければならなくなる。弘化2年(1845年)に仲次郎が死去。さらに同時期に妹の安藤さだが子供を残して死んでしまう。さらにその妹の夫・了信が女犯の罪を犯して八丈島流罪となったため、広重は妹の娘・安藤お辰を自分の養女にしてその面倒を見なければならなくなった。

このように不幸が重なる中で、晩年の安政3年(1856年)から順次、江戸を描いた「江戸名所百景」を発表する。これは江戸の名所絵でも最大のものとされ、広重の名所絵の集大成であり、晩年の傑作にもなった。

安政5年(1858年)に江戸でコレラが大流行した際、広重はコレラに感染する。死を悟った広重は9月2日と9月3日の両日に死の床で家族に宛てて遺書を遺した。そして9月6日、広重は死去した。享年62。

家督は妹の娘、つまり広重の養女・お辰と結婚した2代目歌川広重が継承した。後にお辰は3代目歌川広重とも再婚した。

辞世の句[編集]

死んでゆく、地獄の沙汰は、ともかくも、あとの始末が、金次第なれ」(現代語訳:死んで行く先の地獄は言うまでも無く金次第である。この世での死後の締めくくり(葬儀のことと思われる)も全て金次第だからな)。

この辞世は9月2日付の広重の遺書に記されていたものである。

広重の絵[編集]

  • 広重の浮世絵は風景画に新しい分野と方法を確立した。現在の写真で見るような西洋の透視図法を用いて新鮮味のある温雅な画風を特徴としている。いわば近代を先取りした絵であった。
  • 広重の名声は日本だけでなく海外にまで轟き、あの大画家であるフィンセント・ファン・ゴッホは広重の絵を模写したり集めたりしている。ゴッホの絵に広重の浮世絵が影響を与えているのは間違いのないところである。

主な作品[編集]

錦絵[編集]

  • 『傾城貞かがみ』(1818)、役者絵
  • 『中村芝翫と中村大吉』(1818)、竪大判の役者絵
  • 『見立座敷狂言』(1818 - 1830)、大判3枚続の役者絵
  • 『浅草奥山貝細工』(1820)、大判の花鳥画
  • 『外と内姿八景』(1821)、美人画
  • 『東都名所拾景』(1825 - 1831ころ)、横中判で10枚揃物
  • 『浅草観世音千二百年開帳』(1827)、大判3枚続
  • 『風流おさなあそび』(1830 - 1834ころ)、横大判の玩具絵で、男子と女子の2バージョンがある
  • 『魚づくし』(1830 - 1843ころ)、花鳥画
  • 『忠臣蔵』(1830 - 1844ころ)、横大判で16枚揃物の役者絵
  • 『東都名所』川口屋正蔵版(1832)、横大判で10枚揃物、俗に「一幽斎がき東都名所」
  • 『東都名所』喜鶴堂版(1832)
  • 『月二拾八景』(1832)、大短冊判で、28景と云いながら実際は2枚しかない
  • 東海道五十三次保永堂版(1833 - 1834)、横大判で55枚揃物、53の宿場と江戸と京都を描く
  • 近江八景』山本屋版・保永堂版(1834)
  • 『京都名所』(1834)、横大判で10枚揃物
  • 『浪花名所図絵』(1834)、横大判で10枚揃物
  • 『四季江都名所』(1834)、中短冊判で4枚揃物
  • 『義経一代記』(1834 - 1835)、歴史画
  • 『諸国六玉河』蔦重版(1835 - 1936)、横大判で6枚揃物
  • 木曽海道六十九次』(1835 - 1842)、「宮ノ越」など、横大判で70枚揃物、渓斎英泉の後を継ぐ
  • 『江戸高名会亭尽』(1835 - 1842ころ)、横大判で30枚揃物
  • 金沢八景』(1836)、横大判で8枚揃物
  • 『本朝名所』(1837)、横大判で15枚揃物
  • 『曽我物語図絵』(1837 - 1848ころ)、竪大判で30枚揃物の物語絵、上部を雲形で仕切り絵詞を入れている
  • 『江戸近郊八景』(1838)、横大判で8枚揃物
  • 『東都名所』藤彦版(1838)
  • 『江都勝景』(1838)
  • 『東都司馬八景』(1839)、横大判で8枚揃物
  • 『即興かげぼしづくし』(1839 - 1842)、竪中判の2丁掛で玩具絵
  • 『和漢朗詠集』(1839 - 1842ころ)
  • 『諸芸稽古図絵』(1839 - 1844ころ)、横大判の4丁掛で4枚揃物の玩具絵、子供の稽古事16種を戯画風に描いた
  • 『東海道五拾三次』佐野喜版(1840)、俗に「狂歌東海道」
  • 『新撰江戸名所』(1840)
  • 『東都名所坂づくし』(1840 - 1842ころ)
  • 『東都名所之内隅田川八景』(1840 - 1842ころ)
  • 『日本湊尽』(1840 - 1842ころ)
  • 『参宮道』(1840 - 1844ころ)、八つ切判で24枚揃物、四日市から二見浦までを描く
  • 『東海道五十三次』江崎版(1842)、俗に「行書東海道」
  • 『甲陽猿橋之図』『雪中富士川之図』(1842)、竪大判の竪2枚続、版元は「甲陽」が蔦谷吉蔵「雪中」が佐野屋喜兵衛、縦長の構図にそそり立つ渓谷の絶壁と猿橋の姿を見上げる構図で描き、遠景の集落と満月が描かれている
  • 『東海道五十三対』(1843)、三代豊国・国芳との合作
  • 『諸国嶋づくし』(1843 - 1846ころ)、団扇絵
  • 『教訓人間一生貧福両道中の図』(1843 - 1847ころ)、横3枚続の玩具絵
  • 『娘諸芸出世双六』(1844 - 1848ころ)、間判4枚貼りの双六で、ふりだしは学芸の基礎である手習いで上りは御殿の奥方になる
  • 『小倉擬百人一首』(1846)、100枚揃物で三代豊国・国芳との合作
  • 『春興手習出精雙六』(1846)、大判2枚貼りの双六で、寺子屋の学習内容と生活風習がテーマ
  • 『東海道』(1847)、俗に「隷書東海道」
  • 『東海道五十三図絵』(1847)、俗に「美人東海道」の美人画
  • 『狂戯芸づくし』(1847 - 1848ころ)、竪大判の戯画
  • 『相州江ノ島弁財天開帳参詣群衆之図』(1847 - 1852ころ)、竪大判の横3枚続
  • 『江戸名所五性』(1847 - 1852ころ)、竪大判で5枚揃物の美人画
  • 『本朝年歴図絵』(1848 - 1854ころ)、物語絵で、日本書紀に材をとり、古代天皇の時代ごとに、説明文を上部に記し下部に絵を描く
  • 『東海道張交図会』(1848 - 1854ころ)、張交絵
  • 『東都雪見八景』(1850ころ)、横大判で8枚揃物
  • 『伊勢名所二見ヶ浦の図』(1850ころ)、竪大判の横3枚続
  • 『五十三次張交』(1852)、張交絵
  • 『箱根七湯図会』(1852)
  • 『源氏物語五十四帖』(1852)、物語絵
  • 『五十三次』(1852)、俗に「人物東海道」
  • 『不二三十六景』(1852)、広重がはじめて手がけた富士の連作で、版元は佐野屋喜兵衛、武蔵・甲斐・相模・安房・上総など実際に旅した風景が描かれている
  • 『国尽張交図絵』(1852)、張交絵
  • 『浄る理町繁花の図』(1852)、竪大判で7枚揃物の戯画、人形浄瑠璃の登場人物を商売人に置き換えている
  • 六十余州名所図会』(1853 - 1856)、竪大判で70枚揃物
  • 『双筆七湯廻』(1854)、団扇絵で7枚揃物、三代豊国との合作
  • 『童戯武者尽』(1854)、戯画
  • 『東都名所年中行事』(1854)、竪大判で12枚揃物、1年の12か月を扱った
  • 『双筆五十三次』(1854 - 1855)、三代豊国との合作
  • 『当盛六花撰』(1854 - 1858)、竪大判で10枚揃物の役者絵、背景に花が描かれている、三代豊国との合作
  • 『五十三次名所図絵』(1855)、俗に「竪の東海道」
  • 名所江戸百景』(1856 - 1859)、竪大判で120枚揃物
  • 『諸国六玉川』丸久版(1857)、竪大判で6枚揃物
  • 『武陽金澤八勝夜景』『阿波鳴門之風景』『木曽路之山川』(1857)、竪大判の横3枚続
  • 『大山道中張交図会』(1857 - 1858)、張交絵
  • 『山海見立相撲』(1858)、横大判で20枚揃物
  • 『冨士三十六景』(1859)、竪大判で37枚揃物、版下絵は1858年4月には描き上がっていたが、発売は1年後の1859年夏、結果的に最後の作品となった、版元は蔦谷吉蔵、富士を描いた連作で『名所江戸百景』と同様に風景を竪に切り取り、近景・中景・遠景を重ねた構図の印像

肉筆浮世絵[編集]

  • 『琉球人来貢図巻』(1807)、紙本墨画1巻、浮世絵太田記念美術館所蔵、広重10歳の時の作品
  • 『傾城図』(1818 - 1822ころ)、紙本着色、日本浮世絵博物館所蔵
  • 行列図』(1832)、絹本着色、東京国立博物館所蔵  
  • 『桜と小禽図』(1835)、杉戸板地着色、泉谷寺所蔵
  • 『煙管をもつ立美人図』、絹本着色、出光美術館所蔵
  • 『鬼念仏と美人図』、紙本墨画淡彩、出光美術館所蔵
  • 『鴻ノ台図屏風』(1841)、絹本着色六曲一隻、山梨県立博物館大木コレクション
  • 『玉川の富士・利根川筑波図』(1848 - 1853)、絹本着色双幅、ニューオータニ美術館所蔵
  • 『日光山裏見ノ滝 日光山霧降ノ滝 日光山華厳ノ瀧』(1849 - 1851ころ)、絹本着色3幅対、浮世絵太田記念美術館所蔵
  • 『上野中ノ嶽霧晴 上野妙儀山雨中 上野榛名山雪中』(1849 - 1851ころ)、絹本着色3幅対、浮世絵太田記念美術館所蔵
  • 『御殿山花見図』、絹本着色、ニューオータニ美術館所蔵
  • 『利根川図』、絹本着色、ニューオータニ美術館所蔵
  • 『本牧風景図』、絹本着色、ニューオータニ美術館所蔵
  • 『高尾図』、紙本淡彩、ニューオータニ美術館所蔵
  • 『武相名所手鑑・馬入川舟渡』(1853)、絹本彩色、平木浮世絵財団所蔵
  • 『武相名所手鑑・南郷之松原左り不二』(1853)、絹本彩色、平木浮世絵財団所蔵
  • 『高輪の雪図・両国の月図・御殿山の花図』、絹本着色3幅対、鎌倉国宝館所蔵
  • 『不二川の図』、絹本着色短冊、城西大学水田美術館所蔵
  • 『不二望岳図』、絹本着色、熊本県立美術館所蔵
  • 『屋根船の芸妓図』、紙本淡彩、熊本県立美術館所蔵

草双紙・絵本[編集]

  • 『狂歌紫の巻』(1818)、絵入り狂歌本
  • 『音曲情糸道』(1820)、合巻挿絵
  • 『くま坂物がたり』(1821)、合巻挿絵
  • 『出謗題無智哉論』(1822)、合巻挿絵
  • 『白井権八』(1824)、合巻挿絵
  • 『義経千本桜』(1825)、合巻挿絵
  • 『御膳浅草法』(1826)、合巻挿絵
  • 『寶船桂帆柱』(1827)、合巻挿絵
  • 『丹波与作関の小万春駒駅談』(1827)、読本挿絵
  • 『狂歌山水奇鑑』(1831)、絵入り狂歌本
  • 『狂歌隅田川余波』(1833)、絵入り狂歌本
  • 『旗飄菟水葛葉』(1834)、合巻挿絵
  • 『俳諧三十六句撰』(1837)、絵入り俳諧本
  • 『絵本忠臣蔵』(1845)、絵本
  • 『菅原伝授手習鑑』(1846)、絵本
  • 『絵本膝栗毛』(1846 - 1849)、合巻挿絵で、国芳・英泉との合作
  • 『立斎草筆画譜』(1848 - 1851)、絵本
  • 『絵本江戸土産』(1850 - 1857)、全10編の絵本で、1編から7編まで担当し、あとは二代広重が描いた
  • 『略画光琳風立斎百図』(1851)、琳派調の草花・人物・風俗等を軽妙なタッチで描いた絵手本
  • 『岐蘇名所図会』(1851-1852)、絵入り狂歌本
  • 『狂歌四季人物』(1855)、絵入り狂歌本
  • 『狂歌江都名所図会』(1856)、全16編の絵入り狂歌本で、1編から14編まで担当し、あとは二代広重が描いた
  • 『狂歌文茂智登理』(1858)、絵入り狂歌本
  • 『富士見百図』(1859)、富士の姿をリアルに描いた絵本で、作者の死により初編のみで未完に終わった

外部リンク[編集]