楊済
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楊 済(よう さい、? - 291年)は、中国の西晋の武将・政治家。字は文通(ぶんつう)[1]。楊駿、楊珧の弟。武帝の悼皇后楊芷の叔父。楊彪・楊脩ら同族である。
生涯[編集]
弘農郡華陰県の出身[1]。姪が武帝の最初の妻だったため、寵臣として取り立てられた[1]。279年からの呉征伐では冠軍将軍代理として賈充の副将を務める[1]。呉が滅亡すると鎮南将軍・征北将軍・衛将軍などの将軍職を歴任し、長兄の楊駿の娘・楊芷が武帝の皇后になると楊駿や楊珧と共に外戚として権力を振るった[1]。
290年に武帝が崩御し恵帝が即位すると太子太傅となるが、楊駿の専横を憎んだ恵帝の皇后である賈氏によるクーデター、いわゆる八王の乱により三族皆殺しにされた[1]。
『三国志演義』では第120回の呉征伐で冠軍将軍として登場し、杜預の指揮下で襄陽に駐屯し、各軍を監督している[1]。