栄留王
ナビゲーションに移動
検索に移動
栄留王(えいりゅうおう、朝鮮読みではヨンニュワン、? - 642年)は、高句麗の第27代の王(在位:618年 - 642年)。姓は高、諱は建武、または成。先代の嬰陽王の異母弟であり、父は第25代の平原王。618年9月に先王の死去に伴い、王位に就いた。『三国史記』高句麗本紀・宝臧王紀では、諱のままに建武王と記される。
略歴[編集]
実名を高建武(朝鮮読みではココンム)[1]。618年に先代の嬰陽王の崩御に伴い、即位する[1]。即位の年に中国で隋が滅んで唐が建国されると、即座に唐に朝貢した[1]。以後しばらくは唐と友好関係を保ち、両国で僧侶を互いに派遣しあうなどしたが、唐が次第に圧力を強め始めて両国の関係は悪化し、栄留王は戦争が避けられないと考慮して国境に千里長城を築くなどして軍備を整える[1]。しかし王自身は穏健派でできるなら和平を望んでいたので、この王のやり方を弱腰を非難する重臣で強硬派の淵蓋蘇文により642年にクーデターを起こされ、王をはじめとする穏健派とみなされた貴族など180人は全て殺害され、後釜には甥の宝蔵王が傀儡として淵蓋蘇文により擁立された[1]。