嬰陽王
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嬰陽王(えいようおう、ヨンヤンワン、? - 618年)は、高句麗の第26代の王(在位:590年 - 618年)。姓は高(コ)、諱は元(ウォン)。平陽王とも記される。先代の平原王の長子であり、『隋書』には「元」の名で現れる。565年に太子となり、590年10月に先王の死去に伴い王位に就いた。
生涯[編集]
第25代国王の平原王の長男で、容姿端麗で慈愛に満ちていたと伝わっている[1]。即位するとすぐに隋に朝貢して隋から正式に高句麗王に封じられるが、598年に靺鞨族を率いて隋領に侵攻したので隋の初代皇帝である文帝(楊堅)の怒りを買い、隋軍30万による侵攻を受けた[1]。この時は天候の悪化などから遠征軍である隋軍が不利になって撤退している[1]。
しかし文帝の崩御後、跡を継いだ煬帝も高句麗遠征を繰り返し、612年には100万を号する隋軍が高句麗遠征を開始する[1]。この時は高句麗の名将・乙支文徳の奇策が成功して隋軍は数千人の残兵を残して壊滅したという[1]。しかし613年、614年と国力で大きく勝る隋軍の遠征は続き、さすがの高句麗も疲弊する。しかし隋でも国内で煬帝の遠征に反対する反乱などが発生したので、最終的に撃退には成功した[1]。
618年に崩御し、跡は弟の栄留王が継いだ。