柳沢保卓

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柳沢 保卓(やなぎさわ やすたか、享保12年4月27日1727年6月16日) - 安永3年3月22日1774年5月2日))は、越後黒川藩柳沢家1万石の第4代藩主

来歴[編集]

父は第2代藩主・柳沢里済の兄・柳沢里光。母は柳沢重守の娘。正室は細川興生の娘、継室は植村家敬の娘。子は柳沢信有(長男)、石原正通(次男)、石原康由(四男)、柳沢隆直(五男)、柳沢樹正(六男)、娘(土岐頼香正室)、娘(牟礼勝正室)。官位は従五位下、民部少輔、伊賀守。仮名は政五郎。初名は保在。

大和国郡山で生まれる。元文元年(1736年)6月1日、実兄で第3代藩主の里旭が危篤となった際、末期養子に迎えられる。6月3日の兄の死後、8月3日に家督相続して第4代藩主となった。12月16日に従五位下民部少輔に叙任。宝暦12年(1762年)に伊勢守となる。日光祭礼奉行を3度務め、駿府加番、二条表在番、大坂加番大番頭などを歴任した。

安永3年(1774年)3月22日に江戸牛込屋敷において48歳で死去。跡を長男・信有が継いだ。

法名は大通院知山道勝。墓所は東京都新宿区市ヶ谷河田町の正覚山月桂寺。