李従厚
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李 従厚(り じゅうこう、914年 - 934年)は、五代十国の後唐の第3代皇帝(在位:933年 - 934年[1])。廟号は閔帝(びんてい)[1]。
生涯[編集]
第2代皇帝・明宗の3男[1]。933年に父帝が崩御したため、跡を継いで即位する[2]。
李従厚は本来なら後継者では無く、後継者は兄の李従栄であったが、この李従栄が父の生前に反乱を起こして自滅していたため、帝位を継ぐ事になった。李従厚の時代には父の仮子である李従珂と父の娘婿すなわち自身の妹の夫である石敬瑭が実力者であり、この2人を恐れた李従厚は李従珂を河東節度使に、石敬瑭を成徳節度使に任命して遠方に移そうとした。この処置に不満を抱いた李従珂は反乱を起こし、李従厚は鳳翔に対して討伐軍を差し向けるが李従珂は討伐軍を金で買収して寝返らせ、さらに洛陽に進撃する。李従厚は抵抗の意思を示すが、李従珂は洛陽の守備兵も買収して洛陽を落とし、934年に李従厚は李従珂によって殺された[2]。享年21[2]。
後に義兄の石敬瑭(明宗の娘婿)が高祖として後晋を建国した際、閔と諡された[2]。閔とは「心配する」「憂うる」を意味する帝号である。
宗室[編集]
后妃[編集]
- 哀皇后孔氏