新田義貞挙兵伝説地

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新田義貞挙兵伝説地(にったよしさだきょへいでんせつち)とは、現在の群馬県太田市新田市野井町に存在する国の史跡である。

概要[編集]

鎌倉時代末期の元弘3年/正慶2年5月8日1333年6月20日)、当時は鎌倉幕府の御家人であった新田義貞は、この場所において鎌倉幕府を支配していた執権北条氏追討の挙兵をしたといわれている。このあたりは生品神社付近一帯で、神社前の堀を隔てて旗挙塚、その南西80メートルに床机塚などの旧跡があり、拝殿前の小屋に保存されている朽木には、義貞が挙兵に際して大中黒の軍旗を掲げたクヌギの木であるといわれている。この木は明治37年(1904年6月9日の暴風により折れて枯れてしまっており、現在はその一部を残すのみである。

境内には老いた杉や古い松が生い茂っており、明治37年(1904年)にここに「左近衛中将贈正一位新田義貞朝臣挙兵処」の碑が建立されている。また昭和8年(1933年)に「新田義貞公挙兵600年記念碑」が建立されている。毎年5月8日には、白い着物に袴をつけた地元の小学生数十人が鎌倉の方向に一斉に矢を放つ「鏑矢祭」が行なわれる。これは義貞が挙兵に際して鎌倉攻めの吉凶を占って矢を放った故事によるものであると伝わっている。また、生品神社は延喜式神名帳に「新田郡従三位生階明神」とあり、かつて拝殿の修理を行なった時に旧社殿跡から布目瓦が多数出土したといわれている。古くから新田荘の氏神であったと思われる。祭神は大穴牟遅神ほか22柱で、第2次世界大戦前までは県社に列した。

昭和9年(1934年3月、国の史跡に指定されている。

アクセス[編集]

関連項目[編集]