持永城
ナビゲーションに移動
検索に移動
持永城(もちながじょう)とは、現在の佐賀県小城市牛津町乙柳にかつて存在した日本の城である。
概要[編集]
南北朝時代に足利義満は、九州の大宰府で勢力を拡大する懐良親王率いる南朝勢力に対抗するため、今川了俊を九州探題に任命して派遣する。了俊は当地に九州探題府を置いて懐良親王に対抗し、南朝勢力を駆逐する。ところが、足利義満は了俊の勢力拡大を危険視し、探題職を解任して帰京を命じる。了俊はこれに応じて帰京したが、養子の今川仲秋は九州に留まり、探題府があった場所に居城として牟田城を築城した。
仲秋の子孫は後に応仁の乱の頃に持永氏と改姓したため、城も持永城と呼ばれるようになったといわれる。戦国時代になると持永盛秀が現れ、九州千葉氏や龍造寺氏に属して活躍した。城跡に彼の墓もある。現在、城跡は乙柳地区の南側に一部盛り土として残っている。また、城跡の北に持永氏の菩提寺である清泉寺もある。