趙玉盤
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趙 玉盤(ちょう ぎょくばん、1099年 - 1141年)は、中国の北宋の女性。皇帝である徽宗の第一皇女だったが、蛮族である金に捕らえられた後、男の妾として犯され、その男が処刑されると別の男の手で娘とともに強姦された。
生涯[編集]
徽宗の即位前の娘であり、側室の鄭氏(顕粛皇后)とのあいだに生まれた。徽宗は数百人もの女性を側室としていたため、この語、玉盤の妹が二十人以上生まれることとなる。
徽宗が皇帝になると、徳慶公主や嘉福公主の称号を受けた。1115年、16歳のときに左衛将軍曾夤と結婚し、三人の娘を産んだ。
ところが靖康の変が起きて北宋が滅ぶと、1127年、28歳の玉盤は異民族の金の捕虜となる。夫の曾夤と娘のうち二人は南宋に逃れたが、玉盤と一番下の娘は金に連れ去られ、宋王完顔宗磐の妾として犯された。とはいえ数年後の1130年には、次婦という正式な妾として扱われた。
ところが、完顔宗磐が謀反の罪で完顔撻撻に殺されると、完顔撻撻は家に上がり込み、玉盤の末娘(おそらく10代前半)を犯し処女を奪い、強引にものとしてしまった。そして、玉盤をも強姦したという。玉盤の末娘は強引に完顔撻撻の妾とされ、おそらく玉盤も囚われて慰み者となっていたと考えられる。
直後に完顔撻撻はその乱暴狼藉をとがめられ失意のうちに病死し、玉盤と玉盤の娘は、ときの金の皇帝の熙宗の側室として献上された。
その後の玉盤は心労のためかまもなく死去した。
参考文献[編集]
- 『靖康稗史箋證』