広田徳平
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広田 徳平(ひろた とくへい、嘉永2年(1849年) - 昭和20年(1945年))は、日本の男性。外交官・内閣総理大臣であった広田弘毅の父[1]。廣田 徳平とも記録にはある。
略歴[編集]
現在は福岡市内の箱崎村で生まれる。姓は林で、農家の次男だったといわれている。13歳の時に両親を失って奉公に出た。ところが奉公先の石材店で熱心な仕事ぶりを評価されて、店の主人に養子として迎えられて広田と改姓した。この際に店名も「廣徳」と変えている[1](恐らく、廣田の「廣」と名前の「徳」から取られたものと思われる)。
昭和11年(1936年)に息子の弘毅が内閣総理大臣になると、誰よりも喜んだといわれている。ただし家庭的には不幸で、妻の広田タケは昭和3年(1928年)に絶食死し[1]、昭和5年(1930年)には孫の広田忠雄(弘毅の次男)は自殺している[2]。
徳平は幕末から第2次世界大戦まで長命を保ち、昭和20年(1945年)の敗戦直前に96歳で死去した[1]。