小山内薫

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小山内薫(おさないかおる、1881年7月26日-1928年12月25日)は、小説家、劇作家、演出家。

人物[編集]

東京生まれ。東京帝国大学文学部英文科卒。在学中に雑誌『新思潮』(第一次)を創刊した。ハンサムで芸者遊びもし、「読売新聞」に連載した小説「大川端」ではそのもて男ぶりを遺憾なく描いている。二代目市川左団次とともに自由劇場を創設し、ゴーリキーの「夜の宿」(どん底)やイプセンの「ボルクマン」などを上演し、1912-13年に渡欧してモスクワ芸術座の舞台を実見した。1923年の関東大震災のあと関西に移り、プラトン社で編集の仕事に携わった(この時の部下に川口松太郎直木三十五がいる)。第二次『新思潮』を興した谷崎潤一郎は弟分的存在だったが、谷崎に嫉妬したのか次第に疎遠になった。戯曲では「息子」が有名である。

1924年に築地小劇場を発足させ、日本の新劇の礎を築いたとされる。弟子に、上田萬年の娘の上田文子、のちの円地文子がいて、その作品「晩春騒夜」を上演した1928年、打ち上げの席で倒れて帰らぬ人となった。妹は劇作家の岡田八千代で、画家の岡田三郎助の妻。孫娘は立松和平の妻となっている。