対華21カ条要求
対華21カ条要求(たいか21かじょうようきゅう)とは、大正4年(1915年)1月18日に日本の大隈重信内閣が中華民国の袁世凱に提出した利権要求である。21か条の要求、21か条要求など様々な呼び方がある。
概要[編集]
アメリカ、イギリスなどの欧州列強は、この前年から開始された第1次世界大戦で欧州に集中していたことから、アジア方面に余力を避けるような余裕はなかった。これを好機と見た大隈重信内閣の外相・加藤高明は中国進出の絶好の機会と捉えた。
大正3年(1914年)8月7日の閣議、8月8日の元老会議において、日本は日英同盟に基づいてイギリスの支援要請に応じる形で対独参戦を決定。8月15日に対独最後通牒が発せられ、8月23日に宣戦布告した。9月から日本軍は青島攻略戦を開始し、11月に陥落させた。そして実は、この青島攻略戦が開始された9月に、元老会議で日華交渉の原則が審議・決定され、元老や軍部、政財界などから次々と要求が集まって、最終的に21か条になったという。
主な要求は以下の通りである。
あまりにも日本に有利な条件だったことから、袁世凱はこの要求を受け入れることを即座には認めなかった。これに対して大隈重信内閣は5月7日に袁世凱に最後通牒を突き付けた。当時、中国は辛亥革命で清が倒れ、政情不安が続いていた時期であった。そのため、日本の要求を断るだけの実力が無かったので袁世凱はアメリカやイギリスに支援を求めた。アメリカ、イギリスは日本に警告を発したものの、当時はやはり第1次世界大戦でどうしても欧州に集中しないといけないので強硬姿勢はとれなかった。袁世凱はやむなく5月9日に受諾し、5月25日に調印した。
中国ではこの要求を受諾した5月9日を「国恥記念日」と定めて、以後、日中の間に大きな溝が生まれて中国の排日、抗日運動が高まる契機となった。そして、第1次世界大戦後の戦後処理を話し合うパリ講和会議で、中国は21か条要求を撤回するように求めたが却下され、結果的にこれが5.4運動の原因になった。
結局、1921年11月のワシントン会議で中国に関する9か国条約が成立すると、アメリカの主張である門戸開放主義の原則が立てられて日本の中国権益の要求は全て却下され、21か条要求の中で中国が反対していた条項の放棄、山東省における権益の返還を認めざるを得なくなった。